螺旋階段の↓には

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 世界はいつだって私に冷たかった。周りの人間は日々狂っていく私を尻目に悠々と生きてやがる。  クラスメイトをただ褒める授業で「真面目だね」と書いてきた奴ら。私を学級委員に推薦した低脳ども。合コンで「優しそう」としきりと褒める女性達。私の溢れ出る狂気に気付かない面接官。   そして学生時代に初めての恋心を寄せたあの人も。何を考えているか分からないと言って告白を断った冷たいあの人。  螺旋階段(らせんかいだん)をひたすら下るのに飽きた私は、途中でへたりと座り込んだ。もう動けない。全身の筋肉が悲鳴のパレェドを開始し、手足がもげそうであった。暫くの間、平坦な一段に絶命した川魚みたく横たわる。  冷たい感触が頬をいきなり殴ってきた。金属特有の愛情の欠片もない鋭利な冷たさである。あぁ私はこんな奴に密着しているのか。  すぐにでも再出発してこの無情な金属片を踏んづけたくなった。精々、貴様には焦げ茶色をしている革靴の下敷きがお似合いであろう。  ふと「この螺旋階段に終わりはあるのだろうか」という率直な疑問が私の脳天を一直線に貫いた。  端に寄って吹き抜けの中央部へ頭を晒して中を覗いてみる。底が見えない漆黒の深さに底知れぬ不安感を抱き、今にも発狂しそうになった。いや、もうしてるかもしれん。    小さい頃から高い場所が大嫌いであった。  だが私は高所恐怖症ではない。むしろ下が見えなくなるぐらいの威風堂々たる高さに目を見開いて恍惚としたものである。小学生という役職を演じていた時は、エベレスト山に登ってみたいなどと馬鹿げた幻想を持っていた。  ではなぜ嫌いなのか。  それは恍惚――高い所から下界へとただ何も考えずに飛び降りたくなる自分。その存在に強く強く畏怖していたのだ。   今となっては遠い昔のことである。私は学校行事で集団の登山をしていた。と言っても500メートルぐらいのちょっとした山だが。  正直に言うと帰りたかった。本当に帰りたかった。後先も考えずに逆走し、昇ってくる登山客と生徒達を全員奈落へ突き落として麓へと生還する。  そして私は何食わぬ顔をして最寄り駅に着く。周りは誰も私を気にしていない。ふふ、実に痛快だ。そのまま歌でも口ずさむながら電車に乗り目的地の駅に着く。改札口を出れば、真っ赤なバスが私を律儀に待っている。帰宅すれば気持ちいい風呂に入り、温かい布団に抱き着いて熟睡するのだ。  でもできない。私は班長だったから。欠伸を噛み殺しながら仲間達を引率していたのが小学生のワタシであった。全く、馬鹿馬鹿しいにも程がある。    殆ど半狂乱になっていた私はやっとの思いで頂上に着く。仲間達が労いの声を掛けてくるが、一切無視して端付近の手摺へ歩み寄る。俯いていた顔は垂直になった。  遠くに幾重にも重なる色彩豊かな山々があった。晴天を悠々と貫き通す程の荘厳な沈黙を保っている。  だが私の心臓は一寸として動かされなかった。こんなモノは只の虚勢である。呆れ果てて放心状態となった私は再び目線を落とした。 「そこには絵画のように精巧な美しさ」  言葉で表わせないぐらいの上品な美しさに目眩を感じる程、大いに酔っていた。  どこまでも永遠と続くこじんまりとした町の模型があった。その中央部を鉄道の高架橋が大胆不敵に走っている。周りには豆粒ぐらいの家々があり、たまに煙突のようなビルと横長のマンション。  はるか向こうの地平線にはさっき見上げたはずの山々があった。今となっては些々たる引き立て役にしかならん。  途方もなく小さな一粒全てに一個の家庭があって日常をそこで過ごしている、と思うと興奮が止まらなくなった。煮えたぎった血潮が全身を暴れ馬のように駆け巡る。  不意に飛び降りたくなった。  私が今居る頂上から真っ逆さまに落ちて、この町に熱い血潮をぶち撒けられたら。私は、私はどんなに幸せだろうか。  もし点呼をとる教師に呼ばれなかったら。餓鬼の喧騒でふと我に返らなかったら。  私は輝くばかりに美しい町と永遠の血盟を交わしていただろう。  ……遠い昔の子供時代を懐古する私の体が四肢から段々溶けていくのをようやく気づいた。        目が覚める。また同じ夢を見た夜は4277連続。だけど目が覚めてしまった。あぁ、私はしがない会社員に戻ってしまった。大きく舌打ちしながら、もそもそと面倒臭い出勤の準備を始める。  いつもの最寄り駅のいつものプラットフォウムに着く。黒い勤め人が狭い場所に群がっている光景はひどく殺風景であった。例えるなら文化祭の安っぽいお化け屋敷が妥当であろう。  その先頭に童顔のリィマンが黄色い枠線ギリギリに立っていた。頭を下げたまま熱心に携帯をいじっている。通勤電車の警告音が構内に突き刺すように鳴り響く。  いきなり近づいて無防備な背中を思い切り蹴飛ばしたい、という衝動に駆られた。私に押されたリィマンは不幸にも線路上へ飛ばされる。そのまま電車と衝突し、五臓六腑を老年の車掌に捧げるのだ。あぁなんと愉快だ、愉快なことではないか。  でもできない。私はただの会社員で暴力はあまり好きじゃない。これは只の不完全な妄想、妙ちくりんな悪夢である。私のようなつまらない人間が重罪を犯していいはずがない。  年季の入った電車がニュルっと伸びてきて、やがて停車した。私は沈黙を貫いたまま乗車し、端の方にある吊り革をそっと掴む。  私と似た匂いの人間がいないか、辺りを見回す。電車に乗っている時にいつもやっている癖だ。私の周りには、同じように痩せこけた顔が列を重ねて存在していた。出社前にぴったりの貧乏顔である。    乗車口にもたれ掛かる、前髪が後退して薄汚い肌色を覗かせている見苦しい中年男性。座席に座ってノォトパソコンへの手を忙しなく動かすエリィト風の若者。顔が死んでいて、子供クレヨンを塗りたくったような濃い化粧をしているOL。  腹が立ってきて、車両の端から端までいる人間を一人ずつ平手打ちしたくなった。お前らは「社会的な人間」という仮面を無頓着に付けているのだ。ちょうどお祭りの屋台で売られている子供向けアニメの仮面のように。    中国の著名な思想家である荀子は言った、「人の性は悪なり、その善なるものは偽なり」と。人為的な理論や理屈をはるかに超越した紛れもない真実だと思う。  誰も、そういつも顔を合わせている親しい友人であっても。偽物の仮面を付けた人間の心中など計れやしないのだ。他人に言えない罪を隠しながら生きている奴など沢山いる。  ついさっきすれ違った人が実は凶悪な殺人鬼でした、みたいな話はよくある話かもしれない。いやそうあって欲しいのだ。  人間はみな心の奥に恐ろしい破壊衝動がある。例に漏れず私だってそうだ。   友人の結婚式に出席した時、シックなテェブル上に寸分の狂いもなく綺麗に並べられた料理皿を、高級ワインを傾けながら眺めた。突としてテェブルの上を大股で闊歩したくなる。秩序立った料理皿は私の革靴によって無秩序に砕け散るであろう。  ガラスのように綺麗な場面を一瞬の内に粉々にしようとしたのだ。学生時代には、静寂な試験中に発狂して喚き散らしたくなるのに悩まされた。時に英語のリスニング試験中には。  だが世間一般には、私のような人間を真面目で誠実と評価しているらしい。対象を外面だけでしか判断できない愚鈍な例である。  奴らは平和慣れし過ぎている。隣国の暴動もまるで映画かのように楽観視しているのだ。お前らは明日自宅に巨大隕石が降ってきたらそのまま愚直に死ぬというのか、いやさっさと死ね!  この意味も無い世界に別れを。  夢で何度も見た螺旋階段がふと脳裏に蘇っ た。荒唐無稽な現代人より何千倍も見目麗しい存在である。いつか都心の国立博物館で見かけた古代アンモナイトの殻をぱっと思い浮かべた。  思い返してみれば夢というものはいわば妄想なのだから、あの永遠に続く階段は私自身の深紅の心なのかもしれない。  私は退屈な車両の中で笑いを堪えるのに必死だった。どこにでもいそうな平凡な一社会人が螺旋階段の続きを黙黙と考えているというのに、誰も気付かないのだから。隣で立ったまま眠りこけている阿呆な中年男性に耳打ちしたくなった。  4278回目の同じ夢をまた見る。何度も出てくる不気味な螺旋に親近感をも覚えていた。今日はなぜか階段を下りる気は毛頭ない。もう下っても無駄だと心からひしひしと感じていた。  赤銅色に錆び付いた手摺を優しく撫でる。少量の錆が指先に残った。簡単に取れそうにもない頑固な汚れであった。  鋭い視線を感じる。幽暗な縦穴が私を真っ直ぐに見つめてきた。別世界のような華麗さに目を奪われる。どんな絵の具を使っても決して表わせない、深い深い真っ黒な色をしていた。  ぼんやりとした頭の中に浮かんだ滅茶苦茶な考えに身の毛立った。  私は脆い手摺を乗り越えて自由落下する。それは、小学生の時実行できなかった神聖な行為である。螺旋階段の終わりをこの目で確かめに行くのだ。  大人になった私は世間体を気にして無味乾燥の人間を演じさせられていた。だが今だけは夢の中である。もう何もこの私を引き止める物はない。自由に行動し、選択していいのだ。鋼鉄の仮面も付けなくていい。  手摺の上に右足を掛ける。そのまま一思いに渦巻き状の暗がりの中へ飛び込んだ。  落ちる、直線的に落ちていた。光が一切届かない闇の中で、切り裂かれた空気の音が甲高く響き渡る。目を瞑ったままじっと耳を澄ませていた。  途端に憂鬱な心の錠が一気に砕け散ったような晴れ晴れとした満足感を覚えた。と同時に現存の社会のルールや法律がどうでもよくなる。私は完璧な狂人へと変貌しつつあった。  つまりは。つまりはこの永遠に続く螺旋階段は私に唯一残された理性だったのだ。  終わりなど無かった。いや、もうすでに自己完結していたのだ。日々行う猟奇的な妄想を無限の蜷局(とぐろ)で受け止めといてくれたのだ。  目を開ける。私の体は更に加速して轟音を立てながら落ちていた。周りの階段は一直線に繋がる奇妙な六角柱になった。 「もしこのまま目が覚めたら」と考えてみる。寝間着のまま外に走り出て、呑気に歩いている冷酷な通行人の間抜け顔を拳で殴ってやろうじゃないか。警察に捕まるのもまた一興である。また、このまま永久に閉じ込められてもよい。  私を振った、冷たいあの人は今なら交際を承諾してくれるだろうか。私の狂気に満ちた目を見て何を思うのか知りたい、見せたい。  不気味な高笑いは暗闇の虚空に掻き消されていった。    私の底意がちっとも理解できないだって?まぁまぁ、ご冗談を。この文を読んでいる貴方達も私とここまで「下りて」きたじゃないですか。 『私』は『貴方』でもあるんですよ。                    了
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