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現場の部屋の前まで来ると、俺はぜーぜーする息を必死で整えた。この古いマンションにエレベーターなんかなくて、階段を頑張って上った。現場がある二階の通路に俺の酷い息づかいが響き渡る。
ようやく落ち着いて、俺はチャイムを押した。
応答はない。
「永友さーん」
「……」
ドアノブに手をかけてみると、鍵はかかっていないようである。鉄扉を開けて入った。
と、玄関横の台所の前で女が横たわっている。しかも、血まみれで――!
「永友さん!」
生存確認のために、大声で呼びかけてみた。
すると、うぅ……、と女は長い黒髪の頭を持ちあげて、髪の間から血走り焦点の合わない目を覗かせた。
……よかった。生きていた。死体はなるべく見たくない。
女の出血は腹からのようだ。切腹したけど痛くて途中でやめたといった感じだろうか。
救急車に連絡して、男性の遺体を確認するべく奥の部屋へと進んだ。
俺の部屋と同じようなワンルームだ。ベランダへと続く窓が一つにベッドと本棚だけで窮屈な部屋。そんなシンプルな部屋には――、誰も見当たらない。もしかして……と、トイレと浴室に行ってみても、いない。
いったいどういうことだろうか。
「永友さん……、男性を殺害したのですよね?」
大量出血している者にあまり訊ねるのはよくないけど、あまりにも不可思議で訊いてしまった。
「ええ。私が消したのよ」
女はヒッヒッとひきつるように笑い、それは嗚咽へと変わり、むせび泣きだした。
「シオンが私を、貶したから、私消したの。けど、私はシオンのおかげで、シオンいなければ生きられなくて……だから私も消えようと思ったのにっ。キッアー!」
泣き叫んだ女は血塗られた包丁を握りしめて、自らの喉元へと振りあげた。
「やめろ!」
どうにか包丁を奪うのに間に合った。
女は泣きわめき、どす黒い床につっぷした。陽が届かない台所で黒髪を落とす様は、深淵からはいだした悪魔のようだ。悪魔は俺をそのまま闇の底に引きずりこんでしまいそうだ。
「俺は行かないぞ」
狂った女を見ていられなくて、俺は逃げだし、冷たい鉄扉の外側にもたれた。二階の通路にまた荒い息が響く。
俺は大丈夫だ。俺はあの女のようにはならない……はずだ。
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