青葉の扉

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 第四十三回エバ・ローリン杯の当日は小雨の降る空模様で、開催が危ぶまれるほどの風はなかったので予定通りに開会式が行われた。  メレと仲間たちは来年のエバ杯に向けて偵察の為にスタート地点とメレの秘密の観戦場所とに分かれて見学することになった。  オロンのチームに紛れて、メレとエブリン、ミーヤは間近に出場する飛行機を見て回る。 「俺たちが一番だ」  出場の順番くじを引いてきたジュンがオロンにそう告げているのが聞こえた。少し緊張しているらしいオロンが頷いている。言葉少なに最後の点検を終えて、飛行機がスタート地点に置かれた。 「チーム・銀狼は去年の優勝チームです。さて期待に満ちた銀狼の最新鋭の機体は距離を伸ばせるのでしょうか」  大会の司会が興奮した声で話しているのを無視するかのように、静かに銀色の機体が輝いている。  銀狼はメロン村に伝わる天から遣わされた獣である。その聖なる狼は村を守り、空へと帰っていったとされている。その銀狼の名を戴いた機体は細く長く、前方のプロペラの削られた角度が絶妙に美しい。羽根の部分は薄く、風を受けて上昇するように計算された角度になっている。  パイロットはオロンだ。背が高い分損に思えるが、コックピットに寝転ぶように入ると、もう顔も見えないくらいだ。オロン用に設計されているのが分かる。オロンは健脚で驚くほど速く走る。動力のない機体を滑空させている間に彼の足が翼を漕いで支える。いかに漕いでいけるかが勝負とも言えるのだ。  笛が鳴り、銀狼の機体が湖の上に飛び出す。  優美な翼が風を受けて上昇した。安定した翼は鷲が空高く飛んでいるように見える。  空に雲間から光が差してきた。雨が止み、銀色の機体が輝く。まるで神から遣わされた鳥が現れた絵画を見ているような気持ちになる。 「綺麗」  思わず呟いたメレだが、その場にいた誰もがそう口にした。  銀色の翼は落ちることなく進み、湖を旋回して戻って来た。こんなことは大会史上初めてと言える。  高さを保ったまま、銀狼の機体は丘へ帰って来てしまった。 「本当に人が飛ばしているのか」  他の動力がついているのではないかと疑いが持たれたが、機体は人力でしか動かないと事前の厳しい審査で証明されている。 「驚きました。チーム・銀狼、暫定一位です。この記録と同じ記録を出せば、延長戦に持ち込めます。さあ、次の挑戦者はチーム・空飛ぶ獅子」  司会が二番目に滑空するチームを紹介しようとした時、また雨がぱらついてきた。銀狼は運にも恵まれていたのだ。  メレはいくつか気になる機体を見て回り、ひとりオロンのところへ戻った。エブリンたちはまだ他のチームを探っている。  オロンは用意された天幕の中で他のチームが飛ぶのを見守っていた。その目は厳しく、兄の優しい顔しか知らなかったメレは少し驚いた。 「メレ、どうした?」  オロンがメレに気が付いて笑顔を見せる。 「ううん、別に。お兄ちゃんのチームは凄いんだなって、思ってたの」 「そうだろう?でも、油断はできないな。あそこの順番を待っている白い機体。あれは飛ぶぞ。さっき見せてもらったけど、今までとまったく違うメカニズムを採用して作っていた。面白いものを考えたなって思ったよ」 「うん。パイロットの負担を軽くする設計だね。人漕ぎで回転が倍になるように作ってある。あれはバネが大事なんだよ。それに機体を軽くする為の工夫があちこちに見られたよ。勉強になる」  メレが見て来た情報を整理して述べるとオロンが驚いた顔になる。隠してある設計をそこまで暴露されたら『空飛ぶ獅子』は青い顔になるだろう。 「そこまで分かっていたか。本気なんだな」 「え?」 「飛行機を作りたいってことがさ。浮ついた気持じゃないって分かって安心した」  下手なものを作ると墜落してパイロットは命を落とす。  それだけにオロンはメレの腕の見極めが重要だと思っていた。 「来年はお前たちもライバルか」  楽しそうにオロンが言ったところに、雨に濡れたジュンが天幕の中に入って来た。茶金の髪が濡れて光っている。どこかへ偵察に行っていたらしい。  ジュンはメレを認めると微笑んだ。 「メレ、美味しいお菓子をもらったんだ。後で一緒に食べよう」 「え」  優しい言葉をかけてくるのは罠かもしれない。  メレは身構えて近くに来たジュンを見上げる。 「ん?」  メレを見下ろして、ジュンは濡れた手でメレの頭を撫でた。 「つ、冷たいよ」  もう、と怒りながら、メレは持ってきたハンカチでジュンの体を拭き始める。 「いいよ、俺のことは。お前の可愛いハンカチが濡れてしまうぞ」  メレの手を避けるジュンを無理やり捕まえて、メレは黙々と五枚のハンカチを使って拭き終えた。大人しくされるがままになっていたジュンはメレの手を掴んで口元へ持っていく。 「五枚もハンカチを持っているなんて驚きだけど、感謝する。メレ」  ジュンの柔らかい唇がメレの人差し指にキスをして噛みついた。 「な、な、な、なにを」  上ずった声にジュンの茶色い目が光る。 「メレ」 「はい、そこまでね」  オロンがジュンを体ごと横に避けさせ、メレとジュンの間に自分の体を使って壁を作る。 「メレに変なことしないでくれるかな」  ジュンに向かってオロンは目を光らせる。 「まだそこまでしてないだろ?大目にみろよな。全然導入部分だし、俺は欲求不満」 「駄目駄目。見ただろ?メレは純粋なんだ」 「誰でも最初は初心者なんだから、慣れて行かないとな」  ジュンの野望の宿った瞳に見据えられて、メレはすくみ上る。狩りの獲物は未だに自分らしいと悟って、メレの心臓が跳ねている。すぐにオロンの背中に隠れてしまう。 「ちゃんと教えるから、少しずつ前に進もうか。俺のメレ」  ジュンの呟きに寒気を覚えて、メレがオロンにしがみつく。苦笑いを浮かべて、オロンはメレの背中を撫でた。 「メレもしばらく見ないうちに大人になってきたね」  オロンが感慨深く言う。それを言うなら、とメレは兄の向こう側にいるジュンを盗み見た。  まるで知らない人のようだ。  昔のジュンはオロンの背には及ばず、小柄で色も白く、いつも目はらんらんと輝いていたが、今のように背が高く分厚い体ではなかった。それに整った美貌は目の毒のような気がする。これが大人になるということなのだろうか、とメレは戸惑いを隠せない。オロンの変化は兄だからなのか、離れていてもあまり実感はない。目が鋭くなっている気はするものの、兄は兄だ。  盗み見られているのに気が付いたジュンがメレに微笑む。  狼の前のウサギはドキリとして赤い顔になった。  やっぱりジュンの側は心臓に悪い、とメレは実感したのだった。  
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