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――ああ、この香水ビンには、「苦悩」と「悲しみ」と「子猫」が入っているの。
餞にあなたにあげる。そうよ、あなたはひとりで生きるの。キレイでしょう、見て楽しめばいいわ。それでいいの。
どれも私は好きなのだけれど、あなたにはどうかしら。
気をつけて扱ってね。これは純度が高くてとても濃密。
苦悩があなたを打ちのめすかも、悲しみがあなたを死に追いやるかも。
でも、いつか開けたくなる時が来るかもしれない。
もしも、子猫が恋しくなったならどれか開けてごらんなさい。
匂いじゃわからないと思うけど。
よく生きて、よく考えるのよ。
そんな顔しないで。
永遠の別れじゃないわ。
また私が通りがかった時、もしもあなたが生きていたなら、もういちど会いましょう――。
あの日わたしを助けてくれた魔法使いはそう言って、ホウキに乗って飛び去った。
わたしを森の小屋にひとり残して。
新しいすまいを探すのだという。
魔法使いは世界を見て回るのが大好きで、ひとつのところに長くはいないのだそうだ。
わたしはぼんやりと小屋を眺めた。
魔法使いの残した家具があって、永遠におかゆの湧く鍋と清水の絶えない水ガメもある。わたしはもう、飢えることも雨に濡れて寝ることもないらしい。
すきとおったガラスの小ビンが、窓辺に三つ並んでいる。
少しずつ背丈が違う、ビンの形も色も違う。薄いガラス、繊細な細工。一番背の高いものはゴールドで、中ほどのものは少しオレンジがかったゴールド、いちばん小さなビンは夢のようなピンクで、ふくらんだところにくるりと一周、純白の模様と点が素朴に絵付けされている。
遠い異国の職人の手でひとつひとつ作られた香水ビンだと魔法使いが教えてくれた。
きらきらした小ビンを手に取り、そっと日に透かしてみる。透明な液体がトロリと揺れる。鼻を鳴らすと、甘い花の香。学がなくて何の匂いかなんてわからない。
「苦悩」と「悲しみ」と「子猫」
窓辺のガラス瓶はいつもキレイだ。
魔法使いが通りかかりはしないかと、わたしは、折に触れ空を見あげつぶやいた。
「いつか、いつか――。ねえ、いつか――」
その影をチラと見ることもないまま、わたしは暮らした。静かに暮らした。
おかゆを食べ、水を飲み、時には森へ木の実を取りにゆく。ベリーを摘んで、魚を獲って、暮らして、暮らしてーー。
苦しくなって、泣きたくなった。
ある月の夜。
わたしは香水ビンを開けると決めた。
氷の葉っぱのようなビンのフタを、そっとつまんで持ち上げる。
これは苦悩かしら、これが悲しみかしら、子猫は本当にいるかしら。
美しい香水ビンから、とろけるような甘い香りが部屋いっぱいに広がった。
えもいわれぬ香りの中で月光に刺し貫かれるような甘美な痛苦。ああ、誰か知っている?
悲しみにあてられたのか、苦悩に喉を焼かれたか、わたしは息が詰まるほど泣いて泣いて、疲れ切って糸が切れるように眠りに落ちた。
目まぐるしいほど夢を見た。
いいものも悪いものも、ひとまとめにした遠き日の夢ーー。
けれど、お日さまののぼるころ。
頬にザラリとした濡れた何かが押し当てられて、目覚めは唐突にやってきた。
飛び起きたわたしの前には、金色の目の真っ黒な子猫がペロリと舌を出していた。ノドを鳴らしてわたしに擦り寄る毛玉の首元には、真紅のリボンが結ばれている。するりとほどくと、リボンの端から端に流麗な文字が踊っていた。
「私はあなたの永遠の友、けっして消えない誓いの灯火」
シャボンの香りの生き物を抱きあげて「ハロー」と笑いかけると、子猫は澄まして「ピャア」と鳴いた。
それから、わたしは小屋を出て街に戻った。
黒猫とともに、空っぽになった香水ビンと魔法使いの置き土産をいくつか手にして。
街の中はほこりっぽくて、人もなんだかギスギスしていて、生きるのだってすこしもカンタンじゃないけれど。
苦悩にさいなまれても悲しみが身体を引き裂いても、子猫の元へ帰り着けば、不思議にわたしは息を吹き返し、少しずつ育つように生きてゆけた。
二十年がたった、三十年がたった――。
ちいさな部屋の窓辺で、三つの香水瓶とわたし、そしてゆっくり成長した黒猫が灰色の街を見つめている。
見えるでしょう? わたしは今、ここにいる。
いつか魔法使いが帰ってきたら、どの香りもステキだったと伝えよう。
あなたはきっと、わたしがどこにいても見つけるのでしょう。
私の悲しみと苦悩を取りのぞいて、でも遺してガラスのビンに込めていてくれた魔法使い。
全部開けるなんておバカさんねと笑われても、わたしはきっと笑っていられる。
わたしの手に、子猫が戻ってきたのだから。
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