Singin’ In The Wet Town ――看板を持つ若者――

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 腕時計屋のほうへと向かう道には立ち飲み屋があった。章広がなかを覗くとそこには、ジョッキを持ちながら大きく笑う三〇代くらいの男性の姿があった。男性の周りには会社の同僚か、または学生時代からの友人がいて、みんなして馬鹿みたいに笑っていた。ニットの服をきた落ち着きのあるショートヘアの女性も手で口元を覆いながらにこにこと笑っていた。章広はその光景をきちんと見ながらも歩調は変えずそのまま通り過ぎていった。  章広が腕時計屋がある通りに差し掛かろうとき、周囲にある店の廂から、パタパタパタ、とクレッシェンドする音が聞こえてきた。章広の持つ看板の光に照らされた細い透明な筋の本数が先程よりも数十倍にも膨れ上がっていた。 「雨だ」  (あん)ちゃんたちは傘を差しはじめた。傘を持ていないそれ以外の兄ちゃんたちは店の廂やコンビニ身を寄せた。  禊は水を使って行われる。ここに塩があればなおよかったのかもしれない。再び中空を仰いだ章広の目には、狂乱の街にあるひとつひとつが、もっと言えば狂乱そのものが、一瞬、シャボン玉のように薄い膜だけ見えた。  章広は雨に唄おうと思った。水たまりにタップダンスしながら『I've a smile on my face』と恍惚に唄いたいと、軽くスキップしてみた。けれど出てきた(ことば)は違った。 「三角の公園のブランコの上  そこに太陽がかかれば帰り道  難解なパズルや呪文はよして  アブラカダブラ   ほら 今日会ったことを話そう    散々笑い合った話を掘り起こして  爛々と差す()がだんだんと隠れる前に  そうだね まずコンビニに寄ろうか  残りわずかなおこずかいで  菓子パンででも買おうか    進み続ける時の流れ  あの頃の僕等にも不安はあった  僕の顔が曇ったとき君は  何かを察したようにお腹をくすぐった  朽ち続ける青春時代  だからこそ口付けて飲み干すコーラ  そうだいいことを思いついた  次の土日はここに行こう  『お金ないじゃん』」  強くなっていく雨に章広は傘を取りに店へ戻ろうと思った。再び中心路のほうへと少し早歩きで進んでいった。  ビルの外壁が濡れた。外にある人工灯が濡れた。章広の看板にも水滴がたんまりと付いた。街全体が濡れて、無秩序だったものが水素結合によって手を繋いだ。  章広が進んでいった先に薄いストッキングを履いた二人の若い女性がいた。ふたりは狭い廂の下に入って寒そうに身を縮こませていた。 「雨とかまじ最悪」 「傘持ってこればよかった」 「コンビニで買ってくる」 「うーん……」  章広は「寒い中お疲れ様です」と呟きながら通り過ぎようとした。呉越同舟、敵同士ではないが、雨がお互いの想いや立ち位置を近づけさせた気がしたからだった。 「でも、すぐやむでしょ」 「やむかな」 「だって天気予報だと雨じゃなかったし。通り雨だって」 「それにしても、人がいないね」 「こんな状況だしね」 「日曜の深夜くらい人がいない」 「いつまで続くのかな」 「うーん、いつまでかね」 「なんか、――」
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