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窓の隙間から差し込む朝日に照らされたそれは、どこからどう見ても足跡だった。
見慣れた白い天井を走り回った、というより私の様子を窺う様なそれ。
「人様の家に裸足で上がり込んだ挙句、掃除がしにくい天井を汚していくとか非常識だって私は思う」
少し霞んだ視界をクリアにすべく、ゴシゴシと手の甲で目を擦ってもう一度、天井へ視線を向けたけど足跡は変わらずあった。
人の体温で温まったベッドから決死の覚悟で体を起こし、いつものように寝間着から仕事着兼普段着に着替える。
服を着たらスマホを持って、念の為に記念撮影。
「嬉しくない写真が一枚増えた」
これが料理の写真ならどんなにいいことか、とブツブツ文句を言いながら階段を降りていく。
きちんと磨き上げられた階段を踏み外さないように歩きつつ、一回にいるであろう上司様に声をかけた。
「おはようございまーす。須川さん、須川さん、ちょっとこれ見て下さい。あ、触っちゃだめですよ、データ吹っ飛ぶんですから!」
迷わず向かったのは台所。
今日の食事当番であり、経営者であり、私の上司様は小ねぎを切り終えた所だったらしい。
シンプルな紺色のエプロンと男性用の着物が眩しい。
見慣れてはいるけれど美人や美形と呼ばれる人は何をしても絵になるからズルいと思う。
「おはようございます。もう貴女の寝食に対する執着心を別の所に向けて欲しいところですよ……で、どうしたのですか?」
食事ならたった今できたので変更は受けませんよ、と振り向いてくれたのでスマホを見せた。
画面には天井に散りばめられた『足跡』が確かに映っている。
「ふむ。なるほど……手形よりは趣向を凝らしていますね。良いんじゃないですか、見ようによってはアート作品にも見えますし ―――…ああ、食事の準備を手伝って下さい」
「いや、そういうコメントを求めてるんじゃなくて……手伝いますけど。そうじゃなくって、これってお化けの仕業ですよね?!」
どうにかしてください、と声を上げると上司様は味噌汁を椀によそう手を止めて、呆れたような顔で一言。
「優くん、それは『お化け』ではなく敵意をしっかり持った怨霊の痕跡ですよ。ほら、そんなことより朝食です。席についてください」
「あ、はい。今回のも美味しそうで食べるのが楽しみ……ってそうじゃなくて! 今、なんか割と聞きたくない事実を突き付けられたんですけど、怨霊云々って冗談だったりはしませんか?」
渡されたお味噌汁や炊き立てのご飯を食卓テーブルへ運ぶ。
美味しそうな香りを立てる和食を前に聞きたかったことが飛びそうになるけど、踏みとどまった。
「冗談をいって私に何か得があると?」
「……ないですね。あの改めて聞きますけど、危害を加えられたりとかは?」
そこでピタッと動きを止めた。
体を反転させて、私の部屋がある方向をじっと目を細めている。
人の声が一時的に消えた静かな室内に私も自然と背筋が伸びた。
空になったトレーをギュッと握り締めた所で、上司である須川さんが視線を私に戻す。
「残念ながら危害を加える気満々のようです。活動するのは恐らく夜なので、事務仕事は問題なくできますよ」
「え、ちょ、そこは『霊能者である私が片付けておきますから安心して眠ってください』って言う所なんじゃないんですか?!」
嘘でしょ、と思わず声を上げると彼は小首をかしげて眼鏡の奥にある深い緑色の瞳を丸くした。
直ぐに表情はいつも通り上品な微笑へ変わったけれど、目は真剣だった。
「あの程度の怨霊に貴女が殺されるとは思えません。俗にいう『眠れなくなるくらい怖い体験』をするだけです、安心してください」
「須川さんは『正し屋本舗』唯一の従業員が心配じゃないんですか?!」
「心配ではありますが、お守りも渡していますし貴女の体を操ることはできません。精々、混乱もしくは錯乱し体をぶつけたり階段から転げ落ちるくらいでしょう―――…ああ、階段から落ちたら危ないので柵をつけておきますね」
「私が求めてる優しさの方向が違いすぎる……ちなみに、あの依頼人が私と同じ状況を訴えてきたら?」
「護符を渡して、速やかに除霊ですね。浄霊するのは手間ですし、貴女の元へ現れたのは『混ざり物』ですから意志もほとんどありません。会話自体不可能ですから実力行使一択です」
そういいながら、すべての皿を食卓へ並べ、上司殿はいつもの席へ。
唖然とする私に「早く座ってください、食べたら挨拶と仕事の下見を兼ねて街を歩きます。身だしなみを整えておくように」と言い放ち、静かに手を合わせて食事を始めてしまった。
美しい顔に相応しい声のトーンから『これ以上話をしても無駄』ということが分かったので項垂れて自分の席に腰を下ろす。
「私がお化けに食べられたら三日三晩枕元に立ってやる」
「おや、私の部屋に来てくださるんですか? 歓迎しますよ―――…人間ではなく霊が相手なら『何をしても』罪には問われませんからね」
「すいません撤回します死んだらおとなしく成仏しますので墓前には美味しい苺タルトとアールグレイのミルクティーを備えて下さい。ミルクは低脂肪乳で」
「わかってはいましたが、貴女の食い意地も筋金入りですね」
やれやれ、と呆れたような顔で息を吐いたのを聞きながら私は両手をパンっと合わせた。
(腹が減っては戦ができぬっていうもんね。怖い想いをするってわかってるならある程度覚悟もできるし、運よくぐっすり眠れるように祈っておこう)
最終手段は『寝ている上司のドアを借金取りのように叩いて起こす』のを心に決めて、味の良く染みた大根を一口。
食べ始めたら天井の足跡も今夜怖い想いをするのが確定した事実もどうでもよくなった。
「いつも思うんですけど、私の料理でいいんですか? 高級料亭並みのご飯とは比べ物にならない家庭料理しか作れないですし、須川さんの口に合ってるとは思えなくて」
私は住み込みで働いているのだけれど、この会社は中々特殊な職種だ。
正式名称は『正し屋本舗』という何屋さんなのかわからない店名。
店舗は和モダンな庭付き一軒家。
「私は優君の作る料理、好きですよ。生まれ育った家は、料理人が作っていたので―――…貴女が作る温かい味のする家庭料理は新鮮で食べ飽きません。毎日でも食べたいのですが、貴女はまだ社員ですから」
「そ、そう……ですか? まぁ、そう思ってくれるなら今日のお昼私が作ってもいいですよ。裏庭でトマトが完熟してたので、トマトパスタでもいいですか?」
「ええ、楽しみにしています」
いつも通りの和やかな会話をしながら食事を終えた。
簡単に身だしなみを整え、外出の準備をしてから玄関から足を一歩踏み出す。
玄関から門までのアプローチ部分には綺麗に敷き詰められた見事な石畳と化粧砂利、そして手入れが行き届いた草木。
名前も知らない草や季節の花が目を楽しませてくれる。
「先に歩いてください、施錠をしてから追いかけます」
と言われたので頷き遠慮なく二、三歩進んだところで呼び止められた。
何か忘れものでもしたのかと振り返ると目の前に大きな手。
え、と小さな声が思わず口から零れ落ちた。
その手は真っすぐに私の耳に近い髪へ伸ばされる。
「優君、髪が跳ねていますよ」
耳元で艶のある吐息交じりの声が聞こえて首をすくめた。
私の反応をじぃっと眺めていた須川さんはそっと目を細めて、わざわざ耳元で
「ああ、もう直りました。驚かせてしまいましたか?」
「びっくりはしましたけど、大丈夫です。髪直してくれてありがとうございました! でも、自分で直せるので今度は教えてくださいね」
「……ふむ。これでも駄目ですか。まぁ、いいでしょう。次に髪が跳ねているようならまた直接直して差し上げます」
(なるほど、遠回しに社会人なんだから上司に指摘されない程度に気を付けろって言われてるのか。そうだよね、社員二人しかいない訳だし)
わかりました、と頷けば満足そうに彼は私から離れた。
ふわっと鼻を擽る上品な香りに世の中の理不尽を垣間見る。
(美人がいい匂いって言うのは女性だけじゃなくて男性にも当てはまるんだよって今度友達に教えてあげよう)
そんなことを考えながら店を構えている町の商店街へ仲良く並んで向かう。
この時はすっかり忘れてたけど、上司様のお告げの通り夜にはちゃんと怨霊がやってきて私を寝不足にして朝日と共に消えて行った。
初日こそ驚いたし怖かったけど、三日目くらいから「あ、またきた」とか余裕が出てきて四日目には恐怖より睡眠を妨げられることへの怒りが勝ったのはここだけの話だ。
仲のいい友達に愚痴ったら盛大に「その会社、今からでも遅くないから辞めて転職しなよ」って泣かれたんだよね。
上司には言えなかった。
ちょっとまぁ、上司の性格に問題はあるけれどそれなりに楽しくやり甲斐のある仕事現場です。
「須川さん、そろそろアルバイトでもいいので雇いませんか? 私一人でパソコン入力は厳しいです」
「実務担当者を一人募集しているんですが、条件を満たせない方ばかりなので難航中です」
「いや、実務じゃなくってパソコン入力できる人を」
「そちらは今の所予定はないですね。書類は私で対処していますし、入力だけなら時間がかかってもいいので、人を雇う気はありません」
経営者にそう言い切られてしまっては一社員の私には意見する権利はなくなるわけで。
がっくりと肩を落とした私を見て上司様がくすくす笑っていたのが妙に耳に残った。
「ブラックではないけどグレーな職場だ」
「おや、失礼な。アットホームな職場ですよ。福利厚生も問題なし、労基が入る様な長時間労働や賃金の未払いなどもないでしょう?」
「それは、まぁ……」
「なにより休憩時間にオヤツがつく会社なんて早々ないと思いますが」
「言われてみればそうですね! 帰ったらデータ入力頑張ります」
そうしてください、と須川さんがほほ笑んだので私も笑って返しておいた。
ちょっと手厳しい上司と働く私は、7日目の夜にはもう足跡が天井から綺麗さっぱり消えた理由を知らない。
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