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成人
いつも自宅を訪問してくれる、家庭教師の先生が、勉強の時間が終わったので教科書を閉じた。
青紫色に染められた長くて流れ落ちるような髪に、金の髪留め。白のブラウスと少しスリットの入った紺のスカート。朱色と青に縁取られた眼鏡。若い女性特有の芳しい香り。時々見え隠れする下着のライン。
この事実だけで僕は少し人の道を外れそうになるのだが、何事もなく、これまでに、さまざまな事を教えてもらっている。
「はい。今日はここまで。魔光玉の結晶には3タイプあるのに。赤口玉は鬼には効き目は無いわ。むしろ鬼は赤口玉を使って力を増幅するの。覚えておいて。答えは黄磁玉ね。」
先生は帰り支度をする。たった1時間程度の授業だがとても為になる。先生はこの後も別の生徒の所に行って、同じように勉強を教えるのだと言う。
両親が深々と頭を下げて玄関口から先生を見送る。僕はそのやりとりを眺めながら先生から教わった事の復習をする。
一度先生が帰り道、暴漢に襲われる事件があった。それ以来、先生の移動の際にはボディーガードが現れてエスコートするようになった。
屈強な国賓級の戦士の姿。背中に背負った大剣かつ名剣「アルディガザード」。
その剣の名前は学生の身分である僕も含めて、国中誰でも知っている。
そう、地上を破滅に追いつめた、あの伝説のドラゴンを打ち倒して、この世に平和をもたらしたという、あの剣の持ち主が先生のボディーガードだ。
それにしても何故そんな地位の高い先生が、僕の所になんか家庭教師で来ているのだろう。
『あなたを堕天使ルシファーの生まれ変わりなのか、大天使ミカエルの生まれ変わりなのか、どちらなのかを、見届けに来たの。』
嘘か本当か、先生は半年くらい前、僕にそうやって秘密を打ち明けてくれた事がある。
衝撃が心の中を貫いた事を覚えている。僕が何かの生まれ変わりなのだとしたら、だとしたら、先生のような方が僕の所に毎週のように訪れる理由がわかる。
そして、この日々がまだまだ長く続くものだと思っていた。
僕が16歳を迎える誕生日。楽しく、お祝いのケーキやステーキ等のご馳走が両親より振る舞われた。近所に住む僕のガールフレンドや、友人がプレゼントを持ち込んで同席してくれるなんて、予想外だったから驚いたけど、この国では男子は16歳で成人を迎える。女子はもっと早い。14歳だ。
悲劇は突然襲いかかってくる。パーティの中盤に差し掛かった頃、テーブルの上に並べられた成人祝いのプレゼントのうち一つが強烈な音を立てながら竜巻のように紫色の煙を上げ始めた。
最初は何か燃えたのでは無いか、くらいに思ってはいたのだが、この煙で喉がやられて呼吸ができない状況に陥った。
そこに家庭教師の先生とボディガードの戦士が飛び込んで来た。
「落ち着け!」
先生は叫びながら何かの呪文の詠唱を行う。戦士は片手で口元を覆いながら剣を地上に振り下ろして突き刺す。そのまま剣に向かって力を念じた。紫色の煙が押しのけられる。部屋の中に視界が回復した。
1匹の虫のような動きをする生き物がすごすごとテーブルの裏側に逃げ込もうとする。先生はそれを見逃さずに片手で握り潰した。と同時に紫色の嵐が収束する。
パーティに集まっていた人達のうち一人が部屋から逃げ出そうとするが、戦士がそれを取り押さえる。逃げ出そうとしていた人物は両手に2匹の虫を抱えていた。それを先生に手渡すとおとなしくなった。
先生はその2匹共、素手で握り潰した。
「先生!」
僕は先生に声をかける。
「成人おめでとう。シュミット。」
先生は僕を優しく見つめ、頭を撫でてくれる。
「ありがとう。」
「その少年はお知り合いかしら?」
さっき部屋から逃げ出そうとしていた少年は、少年ではなく僕のガールフレンドだった。
「イザイア・・。」
こちらを強固に睨みつける、ガールフレンドの凝り固まった眼光に、僕は言葉を失った。
「なんでこんな事をしたの?」
先生はガールフレンドを問いただした。
「死んで欲しかった。」
イザイアはポツリと言う。
「初級魔法。祖の生き物だとしても、粗末に扱えば、あなた自身の寿命を蝕むわ。それくらいの事は知っているはず。なのに何故こんな事を。」
先生はイザイアの肩に軽く触れた。
「私はシュミットの許嫁。だから成人したら結婚しなくてはならない。でも未亡人になれば例外の特例が適用されて、私は自由よ。私は自由が欲しい。自由にもっとこの地上を冒険したい。こんな小さな村の片隅で、子供を産んで、世の中を何も知らないままに子育てだけして、死んで行くのが嫌!」
イザイアはうずくまって大声で泣き始めた。
この村では代々、子孫を絶やさないようにする為に、長男と長女を許嫁とする風習があった。そうやってこの村は長きにわたり血を絶やさずに続いて来た。
僕は不意に気分が悪くなる。僕の口の中から巨大な生き物が姿を現し始めていたからだ。
「きたか・・・。」
先生は戦士と一緒に一歩僕の目の前より退いた。
僕はそれが何のことなのかよくわからない。ただひたすら口の中から何かの生き物が外に向かって吐き出されて行った。僕はその生き物を全部口から吐き出すと、僕自身はその生き物の尻尾に成り下がった。
「この時を待っていた。ルシファー。」
先生は、謎の生き物に対してルシファーと呼んだ。
「我が名を知るか。ガハハハ。」
先生はその言葉を聞き終える前に両手を天に掲げて魔法を使った。
突然眩い光があたり一面に立ち込めたかと思うと、急速に景色が変わり、次の瞬間には吹きっさらしの海の見える神殿に移動していた。
「また、一区画、ロストね・・。」
先生は僕を見つめながら言った。尻尾に成り下がっていた僕は、普通の人間の姿に戻っていた。つまり口から吐き出した生き物は僕から分離した事になる。
先生は16年前、僕が生まれた時から、僕の魂の中にルシファーが住んでいる事を見抜いていた。家庭教師として僕の元を訪れたのはルシファーと戦う為だ。
そもそも僕を殺して、魂から強制的に取り出してしまえばルシファーを具現化させる事は容易な事だったが、それはしなかった。僕を救うために、自然とルシファーが僕の体の中から這い出す迄、16年間待ったのだ。
一区画と言っていたのは、この世界は全部で94の区画に分かれている。一つ一つがルシファー率いる闇の軍勢との間で繰り広げられる、生殺与奪の中で、奪取や放棄が繰り返されていた。
先生はルシファーをあの場面で倒しても良かったのだが、僕を救う事を優先した。しかしそれと引き換えにあの区画は奪われたのだ。
この神殿に転送されて来たのは、僕と僕のガールフレンドを含めた子供達数名と、先生と、戦士の、全員で8名だった。
「だめだ。あの区画の人間達は、全部死んでしまった。」
悲しそうに首を振る先生。
「選ばれた8名、ってところかしら。」
イザイアは両手から数匹の虫を取り出して操って見せる。
「あなたが成人する迄黙っている約束だったけど、こんな風に、虫を操るネクロマンサーの家系との縁組。本当に宜しくて?」
にやにやとした表情で僕に問いかけるイザイア。
「今は・・そんな事を言っている場合じゃ・・。」
「来るわよ!」
先生が緊張感の強い声で言う。遠くから赤い光線のようなものがこちら目掛けて、急速に飛んでくる。
神殿の向こう側の海にルシファーの姿が忽然と現れる。神殿のこちら側は何らかの結界なのか、ガラスの壁のような物で守られていて、ルシファーであってもそれ以上こちらに来れない。
先生は両手を正面に突き出すと、何かの呪文の詠唱を始める。強力な黒色の雲がガラスの壁の向こう側に現れたかと思うと、強烈な金色を伴う雷が、ルシファーに降り注いだ。それは数分にわたり続く。徐々にルシファーの表情が険しくなる。体力が奪われて行っているようだ。
「このまま魂も潰してしまおうかしら?」
先生はルシファーに対して問いかける。
「ガハハハ。流石はミカエル。永遠の知性と引き換えに死を失った、かわいそうな天使よ。」
「何を言うか。」
「まぁ良い。せいぜいその小童どもを大切に育てるんだな。あの区画はもらったぞ!!わはははは」
そう言い残すと、ルシファーの姿は消えてしまった。
「先生って、ミカエルの生まれ変わり?」
長時間にわたる呪文の詠唱に疲れた表情の先生に、僕は問いかける。
「いや、それは君・・・だよ。シュミット。長い眠りから醒められた、ミカエル様。あなたをお守りする為だけに、私は100年もの長い時を生き抜いて来ました。よくぞご無事で・・・。」
朝靄の中から太陽が登り始めていた。
(つづく)
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