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「どうして、まだ弾けていないの!?」
「ご、ごめんなさいっ」
「次のコンクールまで、うかうかしていたらあっという間なのよ! 響も分かっているでしょう!?」
反射的に、目をつむる。
だけど……今日は、珍しく打たれなかった。
恐々と顔をあげたら、お母さんは瞳をふるふると潤ませていた。
「ごめんね……。怖がらせたいわけじゃないの」
「……うん」
「お母さんね、響に期待しているの。あなたには、ピアノの才能があるから。みんなとは違うの、特別なのよ」
「……大丈夫。分かっているよ」
「良い子ね。響ならきっと将来ピアニストになれるわ」
――だから、お夕飯は、練習が終わってからね。
もはや口にされなくとも聞こえる暗黙の了解。グランドピアノと楽譜しか置いていない殺風景な防音室に、一人、取り残される。
こんな生活が、もう何年間も続いている。
私が物心ついた時、お父さんは既に家にいなかった。離婚の詳しい経緯は知らされていない。だけど、顔もうろ覚えなぐらいだから、いないことを淋しいと思ったことは正直あまりない。
お母さんは、学校で音楽の先生をしている。美人で、ピアノが上手で、女手一つで私を育ててくれている自慢のお母さん。
お母さんは『先生はやりがいがあって楽しい仕事だ』と言っていたけど、本音ではピアニストになりたかったんだと思う。
そして、お母さんがピアニストになれなかったのは、たぶん私のせいだ。
私を産んで育てるために、海外留学を断念したらしい。私のために、ピアノだけに魂を費やす生活を棄てたのだと。
直接、本人から聞いたわけじゃない。
近所の人がそう噂しているのを聞いた。
物心つく前から、ピアノに触れてきた私は思った。
私の存在意義は、お母さんの夢を代わりに叶えることだと。
苦しくても、辛くても、しんどくても、弾き続けた。その甲斐があって、この前のジュニアコンクールでは全国二位を取った。
だけど、お母さんは笑ってくれなかった。
一位を取れなかったからだ。
次こそは、一位を取りたい。
そうしたらお母さん、今度こそ笑ってくれるかな。
お母さんの幸せは、私の幸せ。
だから私は、指が千切れるその日まで弾き続ける。
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