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☆2016年六月十九日
なんで今日、柊も唯香も休んじゃったんだろう。
紅葉はトイレの掃除用ロッカーからブラシを取り出して、一つ、ため息をついた。午後三時四十分。ほんとうならとっくに帰路についているはずなのに、今週は運悪く当番になってしまったものだから学校に残って清掃活動に勤しまなければならない。ひどく憂鬱な時間だ。そんな時間に久美は、なぞの少女、今近紅葉と一緒にトイレ掃除をしている。ほんとうなら一緒に当番になるはずだった柊と唯香は今日、学校を休んでいた。先生がいう事には、風邪だそうだ。
「……」
今近紅葉はさっきからこっちに目も向けないで、ホースで床を水で軽く濡らして、粉洗剤を適当に撒いていた。そして、デッキブラシでごしごしとこすり始める。すぐに床は白い泡で薄く包まれていった。
久美は、もう一度ため息をついて、ロッカーから便器用洗剤を取り出した。そして個室を開いて、便器に洗剤をかけて、ブラシで擦る。それで水を流して、一個完了。
昼下がりのトイレの中で、ブラシが床や便器をこする音だけが鳴り響く。廊下からは授業から解放された生徒たちの声が憎たらしく聞こえてくる。トイレの窓の外からは、せっかちなセミの鳴き声と園芸部の笑い声が侵入してくる。
「……」
妙な、緊張感。
いま久美と一緒にトイレにいるのは、先日柊のお腹を殴った張本人なのだ。それだけじゃない、いつも誰ともしゃべろうとしないで、一匹おおかみを気取っているし、何かちょっかいを出されようものなら、ひらりと躱してなんなら仕返ししてくるやばいやつ。
だけど久美は、この前保健室で見た今近紅葉の姿が、ずっと気になっていた。
確かにあの時、泣いてたと思うんだけど。
久美は便器をこすりながら、トイレのどこかで床を磨いている今近紅葉の気配を感じる。久美は個室に入っているから、彼女の姿は捉えられない。
ごしごし。ごしごし。
「ん」
だけど、いつの間にかデッキブラシが床をこする音は消えていて、ホースの水が床を打つ音に変わっていた。一通り床を掃除し終えたから、泡を流すことにしたのだろう。足元を見てみれば、久美の入っている個室の床も薄く泡で包まれていた。久美が便器を洗うより前に、紅葉が入って床を磨いていたのだろう。
ジャーっと水を流して、次の個室へ、と、
「お、っと」
個室の外で、ホースを持った今近紅葉がたたずんでいた。久美はちょっと驚いて後ずさり、でも、すぐに個室を出た。入れ替わりで今近紅葉が入り、ホースの水で床を流す。
「あの、さ、今近さん」
久美はホースを持つ今近紅葉の背中を見て、おそるおそる声をかけてみる。
「この前、保健室の、あれって、」
なに? と訊こうとする。でも今近紅葉は背を向けたまま、一言。
「わすれて」
「へ?」
久美はきょとんとして、危うく手に持ったブラシを落としそうになった。久美の問いにかぶせるみたいに、短く、鋭く、今近紅葉がそう答えたからだ。
「わすれて」
もう一度。今度は、くるりと振り返って今近紅葉はそう言った。久美をじろりとにらみつけて、怒ったみたいに顔をこわばらせて。手に持ったホースから流れ落ちた水が、びしゃびしゃとしぶきをあげながら床を叩いている。
「あ、え、と」
久美は言葉を失って、目の前に立つショートカットの少女から目を逸らした。それでも、あっちが自分をずっとにらみつけているような気がして、久美はすこし怖くなる。
びしゃびしゃ。びしゃびしゃ。
水の音だけがトイレの中に響いて、数秒。
「久美ー、いるー?」
トイレの扉の方から加奈の声が聞こえてきた。それで、久美ははっとしてそちらを見ると、ぱしん、と、加奈と目が合った。
……よかった。
何がよかったのかはわからない。だけど久美は、誰かが来てくれてよかったと、そう思ってしまった。
加奈は濡れた床を気にせずに、ぴしゃぴしゃと足音を立てながら久美に近寄ってきた。そして、刺繡糸で編んだミサンガを見せて、「これ、この前約束したやつ」と言って久美の手に乗っける。そして、ふと個室の中を見て、加奈はぎょっとした。
「……今近」
だけど、今近紅葉は表情を変えずにふいっと目を逸らして、ざーっと床を流す。そして、
「ごめん、出るから、そこ退いて」
今近紅葉はぶっきらぼうにそう言うと、二人に水がかからないようにホースを下に向けながら、個室から出て行く。それで、ホースのつながった蛇口まで行ってコックをひねり、水を止めるとホースを戻してそのままトイレから出て行った。
「……なにあいつ」
加奈は今近紅葉の姿がみえなくなると、そう吐き捨てた。そして、ちょっとだけ悔しそうな顔をしてから、「まあいいや」と言って、久美に渡したミサンガを指さす。
「それ、この前言ってた、友達のあかし」
「ああ、うん」
久美はうなずいて、ロッカーにブラシをしまって手を洗うと、ポッケから久美自身が作ったミサンガを取り出して、加奈に渡した。
「交換、ね。でも加奈、なんで今?」
「ん? さっき掃除さぼって作ってたから。ようやくできた」
「……わるだ!」
「いいじゃん。じゃ、ね」
加奈は手を振って、トイレから出て行く。久美はさっき加奈から受け取ったミサンガを見て、ふふっと笑った。
カタッ。
音がして、久美ははっと顔を上げる。すると、そこには今近紅葉が立っていた。彼女は久美に何も言わずに、さっき戻したホースをまた手に取って、蛇口をひねる。そして、びしゃびしゃと音を立てながら久美に近づいてくる。
びしゃびしゃ。
「え、っと」
びしゃびしゃ。
今近紅葉は全くの無表情だ。薄暗いトイレの中、夏のせいで蒸し暑くて、洗剤の香りに交じってアンモニアっぽい、いやぁな臭いが漂っている、そんな中。彼女はうつろな瞳で前方を見据えて、しろい靴下を水しぶきで濡らしながらやってくる。
「な、なんか言ってよ!」
久美はそんな得体のしれないなぞの少女の姿にぞっとして、久美は思わず叫んでいた。でも、今近紅葉は首をかしげて、久美を指さす。そして、
「そこ、どいて」
「え」
久美はとっさに、一歩左にずれる。すると今近紅葉は久美の横をすり抜けて、その奥の個室に入って行った。久美はあっけに取られて、今しがた今近紅葉が入って行った個室を眺める。中では、びしゃびしゃという音が響いていた。
……もしかして、掃除の続き?
加奈が、苦手なのかな。
久美がそんなことを考えていると、すぐに今近紅葉は個室から出てきた。そして、久美の呆けた顔を一瞥して、彼女のもっているミサンガをじっと見つめた。
「あ、えと、これは、ミサンガ」
久美は、だから、そう言ってミサンガを摘み上げて今近紅葉に見せる。だけど彼女は何も言わず、じっとそれを見たまま。
「あの、その、友達のあかしってやつ。ほら、クラスで流行ってる」
久美はとっさにそう説明を付け加える。友達のあかし。仲の良い人同士で同じものを身に着けるという、この頃大百小学校の六年生の間で頻繁に行われている、おまじないの一種。久美は加奈以外にも、唯香や柊とも行っている。
でも久美の説明にも関わらず、今近紅葉は何も言わない。久美はなんといったらいいかわからなくなって、それに、無反応の目の前の少女に少しだけいらっとして、つい、果物ナイフみたいな言葉を口走ってしまった。
「……今近さんは、友達いないから知らないかもだけど」
「……知ってる」
今近紅葉は短く答えて、他の個室に移る。その一瞬、久美は今近紅葉にジロっとにらまれたことに気が付いた。それで、自分がひどいことを言ってしまったのだと悟って、彼女を追ってその個室の前に来る。
「今近さん、その、ごめん、ひどいこと言った」
「べつに」
久美のことは見ようとしないで、彼女はそう答える。そしてそれより後は、何も言おうとしなかった。だから久美も何となく足音を立てないように気を付けながらロッカーに向かい、ブラシと洗剤を取って便器磨きを再開した。
ごしごし。
わしわし。
謎の少女との、掃除。蒸し暑い、梅雨の切れ間みたいな晴れの日だった。
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