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☼2016年七月二十九日
朝六時。久美がいつも通り台ふきをもって居間に入ると、珍しいことにお父さんはタバコを吸わずに、ちゃぶ台の前で新聞を広げていた。だから久美は、朝の匂いがしないなあ、なんて思いつつ、寝ぼけまなこでちゃぶ台を拭きながら、
「タバコ、きれてるの?」
と尋ねてみた。
「うん? ああ、いや、禁煙」
久美のお父さんは新聞から顔を上げて、苦笑いでそう言った。だから久美はびっくりして、
「やめるの? タバコ?」
「うん。お義母さん、ああ、だからおばあちゃんに叱られてね。久美がいるのにタバコなんて、って」
久美は、ちゃぶ台を拭く手を止めた。それで、新聞を読みながら、それでもちょっとイラついたように貧乏ゆすりをしているお父さんを眺める。
なんか、なさけないひとだな。
お父さんの貧乏ゆすりを見て、久美はふと、そう思った。久美もタバコのネガティブキャンペーン時代を生きているから、学校で、街角で、広告で、なにかにつけてタバコは悪であるっていう風に印象付けようとしているのは知っているし、実際あんまり体に良くないんだろうな、っていうのもわかっている。知り合いにタバコを吸っている人は数えるくらいしかいないし、親戚ではお父さんくらいだ。だけど、こんな時でも、お父さんはタバコを止めないんだろうな、なんて、久美は漠然と思っていた。それなのに、今しがた久美のお父さんは「禁煙」なんていう言葉を口にした。それも、久美のお父さん自身の意志では無くて、他の人から叱られて。
タバコをやめろ時代になっても、ずっと吸い続けているお父さんが、かっこいいって、少しは思ってたのに。
それなのに、結局時代に流されて、タバコをやめた。
そのうえ、久美は無性に腹が立ってきた。なににって、久美のおばあちゃんがどうやら、「久美がいるのにタバコなんて」ってお父さんに言ったらしいことにだ。
私は、タバコがいやだなんて、一言も言ってないのに。
べつに久美は、おばあちゃんのことが嫌いなわけでは無い。だって彼女は、やさしい人だ。時々おばあちゃんちに行けば、決まっておやつを用意してくれているし、内緒でお小遣いをくれたりもする。孫想いの、いいおばあちゃん。だけど久美は今、その優しさがどうにも押し付けがましい気がした。
たぶん、自分のことを思って言ってくれたんだと思う。だけど、こっちの気も知らないで、なんて、久美は思って。
つい、
「それ、おばあちゃんが嫌なだけだよ」
とつぶやいていた。
あ、しまった。
怒られるかも。
恐る恐る顔を上げて、彼女は父の顔をうかがう。だけど父は娘を見て、ふっと笑った。
「そうかもな」
それだけ。父はまた新聞に目を落として、貧乏ゆすりを始める。だから久美も、台ふきを持つ手を、再び動かし始めた。
タバコの匂いは、もうなくなるんだ。
久美は、時間にこびりついて離れていなかったものが、不意に流されて消えていった気がした。だから少しだけ、寂しい。
「ご飯できたから、運んでね」
居間に、のんきな声が響いた。久美は顔を上げて、「うん」と頷くと、お盆を持った母の横をすり抜けて台所に向かう。
久美はふと、あのタバコの匂いがどうしようもなく懐かしいものに感じた。
今近紅葉に、会いたいな。
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