アンチサイクロン

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今日は、昨日よりは涼しかった。すこし雲が出ているし、風もふいている。それでも夏は夏で、突き刺すような日差しは相変わらず町をじりじりと焼いている。  久美は、だけど、軽い足取りでアスファルトを踏みしめていく。カバンの中には、スナック菓子と保冷バッグに入ったジュース。オレンジジュースと、カルピスと、コーラ。久美の家では両親が焼酎を清涼飲料水で割るのが好きだから、いろいろと缶ジュースが冷蔵庫の中に入っている。久美には紅葉がどんなジュースが好きなのかわからなかったから、適当にいくつか見繕ってきたのだ。  喜んで、くれるかな。  神社で今近紅葉が待っていることを想像すると、久美はこの暑さなんてどうでもいいとすら思えてくる。昨日はあれほどたくさん話せたんだから、今日もきっといっぱい話せるはずだ、と。  だけど。  昨日紅葉が帰り際に見せた表情を思い出して、久美はやっぱりちょっと、不安になった。  じっと冷たい目で久美をにらみつけて、いらだたしげに声を上げた、今近紅葉。 もしかしたら、今近さんは私に迷惑しているのかもしれない。 本当は会いたくないのかもしれない。 だけど、だからといって今日、久美はくるりと踵を返して家に戻るわけにはいかないのだ。なにせ久美の方から来るように頼んであるのだ。その約束を、久美の側から反故にすることはできない。  今日も今近紅葉に会えるというワクワクと、それが、紅葉にとっては嫌なのではないかという不安。その両方を抱えながら、久美は、それでも速足で歩く。  だけど、考えてみれば。  一学期の前半から中盤にかけてのクラスの様子を思い浮かべる。女子の間でできていた、あの嫌なにおいのする空気を、思い出してみる。  あの中に、私もいたわけだ。  それなら、今近紅葉にとって自分は敵なのではないだろうか、と、久美は思った。確かに久美はあの空気が嫌で、何となく、シンリテキに距離を取っていたつもりでいた。だけどそれっていうのは結局のところ、自分からは紅葉に嫌がらせをしなかっただけで、そして、自分からは悪口を言わなかっただけだった。だから周りから「ねー?」なんて訊かれれば曖昧に「うん」と答えてしまっていたし、周りが笑っていれば付き合いで笑っていた。 そんなの、私は悪くないっていうための、言い訳でしかなくて。 やなやつ、私。 たぶん加奈も唯香も柊も、あの空気の中で久美を仲間だと思っていただろうし、紅葉からすればきっと久美は敵だった。それなのに久美はそんなことを忘れたみたいにへらへらと紅葉に近づいたわけで。 でも、だったらなんで、今近さんは私の頼みを受けたんだろ。 久美に「来て」と言われたとき、それが嫌なら紅葉は「やだ」と言えばよかっただけのハナシ。それなのに紅葉は昨日、あの神社に来ていたのだ。 なぞだ。  久美は階段にたどりついた。いつも通りに薄暗くて、いつも通りにながぁい階段。山は濃緑に彩られていて、夏の風が吹く度に草木のムッとした青い香りが湧き出してくる。山全体にセミがびっしりと張り付いているんじゃないかと思えるほどにじわじわと響く音はうるさくて、だからこの裏山が夏の怪物なんじゃないか、なんて、久美はそんなことを思った。  ちりん。  階段の前は、ふだん、あんまり人気はない。だけど、久美の後ろから、聞き覚えのある控えめな鈴の音が聞こえてきた。 「久美?」  久美はひょいと振り返る。するとそこには、つばの広い麦わら帽子と白のワンピース、そしてベージュ色のサンダルを履いた柊が立っていた。そして手に持ったカバンには、小さな鈴のストラップ。 「柊! ひさしぶり」  久美は一週間とちょっとぶりに会う友達に少し驚いて、でも、とことこと彼女の近くに歩いていく。黒いアスファルトと、白い太陽の光。青い風に吹かれてその中に立つ柊は、この前よりも肌が浅黒くなって、真夏の女の子になっていた。  だけど、 「久美、焼けたね」  砕けた笑顔で柊にそう言われてしまったものだから、久美は、なんていうか、横取りされた、という気がした。だからそれを奪い返すみたいに、 「柊こそ、まっくろじゃん」 「そうかな」  二人は、自身の腕をしげしげと眺めて首をかしげる。そして顔を上げて、二人ともおんなじ動きをしていたものだから、お互いけらけら笑った。 「どうしたの。どこかいくの?」  久美は真夏の女の子にそう訊いてみる。 「うん。買い出し。明日から旅行だから。お菓子の買い出し」  へへ、と、柊は浅黒い笑顔を浮かべた。 「旅行かあ。いいなあ、今年うち、行かないんだよね」  久美の家は、去年思い切って北海道に一週間旅行に行ったものだから、今年はオカネの関係から、名古屋で夏を過ごそうという事になっているのだ。 「どこ行くの、旅行は」 「さが」 「へえ、京都かあ」 「へ? いや、佐賀県だよ。九州の。……どう聞き間違えたの」 「あ、そっちか。いや、ほら、嵯峨嵐山とか」 「もしそうなら京都っていうよ」 「だよねー」  けらけらと、二人は笑う。そして柊は久美のカバンをじっと見て、森をずっと貫くながぁい階段を眺めて、 「久美は今日、なにしてるの?」 「ああ、えっと」  神社で今近さんと、と言おうとして、久美は言葉を飲み込む。だって柊はこの前、今近紅葉に腹パンされているのだ。つまり今近紅葉は柊の敵。だから柊には、自分が紅葉に会いに行くなんて言えない。  久美がなんと答えたものか、と三秒くらい言葉を出さなかったら、柊は階段の方にてくてくと歩いて行って、薄暗くて長いそれを見上げる。そして、うぇ、なんていう変な声を上げた。 「これのぼるの、久美?」 「えっと、そだね。上に神社があって」 「ふうん。お参り?」 「ん。そんなとこ」  久美の答えに。柊はへえ、と頷いて、久美の顔をじっと見つめる。久美は後ろめたさみたいなものに背中を突っつかれたから、柊から視線をすっと逸らした。 「いつも来てるの? ここ」 「うん。そうだね。夏休みは、よく」 「ふぅん。へぇ。そ。あたしも行ってみよっかな」 「えっ!」  久美は意地わるそうな柊の声にびくっとして、彼女の顔をばっと見る。すると、柊はにひひ、と、これまた意地の悪そうなカオで笑っていた。 「うそうそ。こんなとこ上らないよ、あたしは。久美もあたしに上られちゃあ、やでしょ」 「いや、えっと」 「気にしないで。あたしなんて。じゃ、そろそろ行くから」  柊は笑ったまま、歩き出そうとする。だけど、久美ははっとして「まって」と言って彼女を引き留めた。 「私がここに来てることは、誰にも内緒で、おねがい」  だって久美は、お母さんには公園に行くと嘘を吐いてこの神社に来ているのだ。だから、柊の口から巡り巡ってお母さんの耳にこの話が入ってしまったら、ひと悶着起きるに決まっている。  でも、それだけのハナシ。それだけのハナシなのに、柊はそれを聞いて、また、「ふぅん」と言ってにやにや笑った。 「いいよ、ナイショね。ここだけのハナシ。ふふっ」  あ、これはジョシのカオだ。  だから久美はちょっとあわてて、「ちがうから!」と、よくわからない抗議をする。 「何がちがうのかな?」 「え。えっと、たぶん柊が思ってるのと、ちがう」 「そっか、ちがうんだぁ。ふふっ」 「だからちがうんだって!」 「わかった、わかった」  柊はにひひ、と笑いながら、歩き出す。 「じゃあね、久美。またこんど。……ふふっ」 「ちがうんだってば!」  夏の空気の中に、久美の叫び声が響く。だけど柊は久美に背を向けて、くすくす笑いながら手を振って、去っていった。久美はセミの鳴き声を一身に浴びながら、ちがうのに、とつぶやく。  まあ、でも考え方を変えれば。  久美はそう思って気を取り直そうとする。少なくとも、紅葉と会っているという事が勘付かれないなら、それはそれで。と。  だけど、「ここだけのハナシ」になっちゃったしなあ。  久美はため息を吐く。でも、人の口に戸は立てらんないし、と割り切った気になって、階段に向かう。  それじゃあ、行こう。  久美は一歩、石段に足を踏み出した。
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