アンチサイクロン

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薄暗い階段を抜けて、明るい開けた場所に出た。多少の雲は出ているけど、空気を焼いてしまうんじゃないかと思えるほどに苛烈な日の光が鳥居に、拝殿に、社務所に照り付けて、すでに古びた建物はさらに古びていってしまうのではないかとすら思える。久美は灰色の石畳をてくてくと歩き、今日は、お参りはいいか、と思って、石畳を逸れて薄汚れた砂利を踏んでベンチに向かった。  社務所の、裏。しょぼい展望台みたいに景色を見下ろせる場所、そこにはどんと大きな木。そして、そのそばに色あせたベンチ。 「……また、ねてる」  そこに、昨日とおんなじ格好ですやすやと眠っている少女がいた。久美は音を立てないようにそっと隣に座る。ちりん、と鈴のストラップが揺れたけど、紅葉は目を覚まさなかった。  久美は肩を静かに上下させる紅葉をじっと見て、だけど昨日そうして怒られたことを思い出して、視線を外す。そしてカバンを開けて、保冷バッグの中の保冷剤がまだ溶けていないことを確認して、ファスナーをとじた。  そしてベンチの背もたれに背中をつけて、目の前の景色を眺める。昨日とは違って、空にはもこもことした大きな入道雲が我が物顔で、でん、と構えている。  こんな時間では、こんな暑さでは、外に出ている人は少ないのだろうか、眼下に広がる大百区の町は、セミの鳴き声の風景の中でやけに静かにたたずんでいた。だから、久美はまるで自分と紅葉しかいないような気がしてうっすらと笑う。紅葉をちらっと見て、そしてまた視線を夏に向けた。  そうして、久美は、ぼぅっとする。  焼けた空気が、裏の山を包んでいる。石も、地面も、建物も、動物も、虫も、木々も溶けてしまうんじゃないかと思えるくらい、ひどく、暑い。それなのに木陰の中ではそれがなぜかずいぶんとここちよくて、吹く風も、涼しく感じる。  ざぁっと、山の木々が風に揺れた。ベンチのそばの大きな木もそれはおんなじで、久美たちの入る影の中で木漏れ日が踊る。ちらちらとまぶしい光に顔をなでられて、でも、二人はそんなものは気にかけず、ただ、夏の景色に溶け込んでいた。片方は、じっと空を眺めて、もう片方は夢の中で、蝶にでもなっているのかもしれない。  そうして、しばらく。  後ろから、ちりん、という控えめな鈴の音がして、久美は、セミの鳴き声が入道雲と相似であることを、無意識のうちに理解した。  はっと振り返ってみる。 「しーっ」  そこには、人差し指を口に当てて笑う、真夏の女の子がいた。  柊! と、声を上げそうになって、久美は口を押える。それで、冷たい汗がぶわっと噴き出してきた。  見られた。  柊に、見つかった。  言い訳が久美の頭の中をぐるぐると回る。ちがう。まって。そんな、なにも説明できていない短い言葉。だけど柊は柔らかく笑ったまま、足音を立てないように静かにベンチに向かってきて、紅葉の前にしゃがみ込んだ。柊は紅葉の顔を覗き込むように眺めて、ぽつりと、 「今近って、よくみるとかわいいね」  そう呟いた。そしてすっと紅葉の顔に手を伸ばそうとする。 「あ」  ぱし、っと、考えるより先に手が動いて、久美は柊の手首をつかんでいた。柊はきょとんとした顔で久美の手を眺めて、そして、少しだけ悲しそうに笑った。 「なにも、しないよ。だいじょうぶ」  にへへ。柊は笑って、でも腕をすっとおろした。そして、じっと紅葉の顔を眺めたまま、 「やじうまに来たんだけど、ちがわないじゃん、やっぱり」 「え?」 「ヒミツのデートでしょ」 「……ちがう」 「本質は、おんなじ」  にひひ、と意地が悪そうに、柊は笑った。 「仲いいんだ。今近と」 「……わかんない」 「……へえ?」  それで、二人とも沈黙する。柊はじいっと紅葉を見つめたままで、久美の方を見ようとはしない。久美は、なんていえばいいんだろう、と頭の中で言葉を探す。柊は今、自分と紅葉をどう見ているんだろう、と考える。だけど、久美自身にも自分と紅葉の関係を言い表す言葉が見つからなくて、困り切ってしまった。 「久美はさ」  柊は、ともすればセミの鳴き声にかき消されてしまいそうな声でそう言った。 「この前、今近があたしを殴ったこと、心配してるんでしょ」 「……うん」 「あれね、あたしが悪いの。いや、殴るのはどうかと思うけどさ。でもあたしが今近にひどいこと言ったから」  だれも気付いてないけどね、泣いてたんだよ、今近、あのとき。柊はそうつぶやいて、ふっと久美に視線を向けた。それで、 「ずっと、今近ってなんでもない、みたいな顔してたじゃん。あたしたちが何しても。すぐ仕返しするし」 「そう、だね」 「それに、今近ってずっとあたしたちのコト無視してたわけだし。だからずっと、だいじょうぶだって思ってたんだよね。何がかは、ちょっと、わかんないけど」 「うん」 「でもさ、泣いてたんだよ。今近って、たぶんあたしたちが思ってるよりやばいやつじゃないんだよ」  きがつかないもんだよね。と、柊は言って、無理してるような笑顔を見せた。それで、ふっと真顔に戻って、顔に暗い影を落とす。 「あたしたちは今近をいじめてたわけだけど、ちゃんと、謝らなきゃな、って思って。でも、何ていえばいいんだろうね」 「……」 「ゆるしてほしいなんて、言えないけどさ」 「うん」 「これ、あたしの宿題。夏休みの。久美は早く終わらせちゃってね」 「……ん」  柊は立ち上がって、ちりん、と鈴のストラップを揺らす。そして、「じゃあ、がんばってね」と言って歩き出した。久美はその後ろ姿を眺めながら、ちょっと、胸が苦しかった。  柊は、「私たち」って言った。  あたりまえみたいに、その中には私もいた。  そりゃあ、そうに決まっているのに。  それなのに、私は自分だけは悪くないっていう証拠が欲しくて、シンリテキに距離を置いていた、いやな奴だ。  自覚的になれている柊を、久美はなんていうか、えらいな、ではないけど、そうじゃないと正しくはないよね、と思った。 「行った?」 「へ?」  隣から声が聞こえて、久美は跳び上がりそうになった。見てみると、紅葉は目をぱっちりと開けて、小さくあくびをしていた。だから久美は目を真ん丸くして、 「起きてたの?」 「ん」 「いつから?」 「末木(すえき)が来た時から。きざなこと言うね、あの子」  ボクは別に、仕方ないのに。と、紅葉はつぶやいた。  久美は、今ならあのことを訊けるような気がした。あの日の、保健室でのことを。 「今近さん、あの時、保健室で」  紅葉はふう、とため息を吐く。 「見てたんだよね、あれ。誰もいないって思ってたのに」 「……ごめん」 「いつもはさ、あの時間って保健室に人いないから。油断してた」 「そう、なんだ」 「まあ、見られちゃったならね、仕方ないし」  あはは。紅葉は乾いた笑い声をあげた。 「何、言われたの」 「さあね。なんだったか。よく覚えてないや。っていうか、思い出したいものでもないしね」  だから、わからない、と、紅葉は首を振った。そして、隣に座る、どこか不安そうな目をした久美を見て、 「もしあのいじめについて謝りたいっていうなら、すぐにいいよ、っていうよ、ボクは。ボクも結構、わるいし」  そう言って、紅葉は寂しそうに笑う。ボクも結構わるい。そんな言葉を言われては、 「今近さんが悪いだなんて、そんなこと、ないでしょ」  久美は反論していた。 「いやだったでしょ、いじめられるの。それなのに」  だけど紅葉は首を振った。 「いやだったけど、それとボクがわるいのは、べつの話だから」 「そんなこと!」  紅葉は、叫ぶみたいにそう言う久美にふっと笑うと、「そう思うなら、それで、いいと思う」と言って、入道雲を眺めた。  久美はそんな紅葉の横顔に、どうしてだかわからないけどひどく胸の奥が痛くなって、「今近さん」と呼びかける。 「ごめんね、いじめ」 「いいよ」  紅葉は前を向いたまま、短く答えた。そして、すっと右手を差し出す。久美はその右手を見つめて、首をかしげて、自分の右手をそれに重ねようとしたけど、 「ジュース。約束でしょ。ちょうだい」  紅葉はぶっきらぼうにそう言った。だから久美は顔を赤くしてあわてて右手を引っ込めて、カバンの中から保冷バッグを引っ張り出す。そして中身を見せて、 「どれがいい?」 「……カルピス」  カルピスウォーターの缶を紅葉に渡して、久美はコーラを手に取る。そして、二人ともばらばらなタイミングでプルトップを上げた。ぷしゅっと夏の音がした。 「もっとわるいひとなら、ずっとらくなのに」  紅葉は、ぽつりとつぶやいてカルピスをぐいっと呷る。久美はその言葉の意味は分からなかったけど、コーラを一口飲んで、 「柊は、やさしい子なんだよ」  物の言い方がストレートで、思い込みが激しいとまでは言わないけど、強めの子。だけどそれっていうのは正義感みたいなものから来るもので、自分よりも友達のことを大事に考えている、やさしい子。 「そうなのかもね」  紅葉は呆れたようなため息をついて、そう言った。  それで、二人ともごくごくとジュースを飲む。 「あ」  久美は思い出したように声を上げて、コーラの缶を片手に持ったままカバンの中をまさぐる。そして、スナック菓子の袋を取り出して、見せつけるように笑った。 「今日は、ポテチもあります」  たべる? 久美が首をかしげると、紅葉は困ったような顔で微かに笑って、頷いた。  そこからしばらくは、二人の間に言葉はなかった。ただぱりぱりとポテトチップスを食み、缶ジュースで喉を潤し、タオルで額の汗をぬぐう。久美は、どこかで見た光景だな、と思った。だけど、なにかが足りない、とも。  デジャヴってやつだ。  久美は記憶をかき分けていって、どこでこれとおんなじ状況を見たのかを探ろうとする。だけど当然その甲斐はなくて、ただ漠然とした既視感だけがもやもやとめぐっているだけ。  こんな場面、そうそうないと思うんだけど。  まあ、しかたないか。  久美はポテチを一枚口に放り込んで、ぱりぱりとかみ砕いて、コーラで流し込んだ。 「けぷ」  炭酸のせいでげっぷがでた。つんと鼻の奥にガスが染みて、うっすらと涙が出てくる。しかしそこで、久美はこの景色の中で足りないものがあることに気が付いた。だから、けほけほと咳をしながら隣に座る紅葉に、 「タバコ、吸わないんだね」  と訊いてみる。そう、既視感のあるこの光景。でも、その煙の香りだけが、決定的に欠けているものだった。  紅葉は、久美の問いに一瞬身を固めて、「うん」と答えた。ただ、それだけ。その後は何も言わないで、紅葉はポテトチップスに手を伸ばそうとする。だけど残りは一枚だったものだから、彼女は逡巡して久美の顔をうかがう。 「いいよ」  久美は笑った。紅葉は「ん」と小さく頷いて、最後の一枚を手に取った。久美はそれを確認して、空になったポテトチップスの袋を畳む。縦に何回か折った後、それを結ぶみたいに。 「あのさ」  コンパクトになった袋をカバンの中に入れて、コーラを一口飲んで、そしてちょっとだけ勇気を出して、久美は紅葉に声をかけてみた。 「今日ね、お父さんがタバコやめるって言って」 「……ふうん」  紅葉はポテトチップスをカルピスで飲み下して、顔に少し、影を落として頷く。 「私タバコの匂い、好きだから、ちょっと残念だった。です」  報告、以上。みたいな感じで久美は言葉を言い終えて、紅葉の顔をうかがう。そして、「なんか、だからなに、ってかんじかもだけど」と、照れ隠しのように笑って見せた。しかし紅葉はうつむいたまま、小さく口を動かして「そう」と返事をするだけ。だけど、ふっと久美に視線を向けて、 「……それは、お父さんがタバコをやめたのが残念なのか、ボクが今タバコを吸わないのが残念なのか、どっち」 「えっ」  久美は、そんな質問が返ってくるなんて思っていなかったから、一瞬返答に困った。だけど、そう言えばどっちなんだろうと自分でも不思議になって、 「ちょっと考えさせて」  と言って黙り込む。紅葉は、顎を右手の親指に乗っけるみたいにしたポーズで急に思考し始めた久美を無表情で眺めながら、「ん」と返事した。  それで、三十秒くらい。久美はずっとその格好で、瞬きもしないで考え込む。紅葉はそんな久美のむつかしそうな顔を眺めて、だけど、自然にうっすらとわらった。 「ととのいました」  久美は顔を上げて、そう宣言する。その言葉に、だけど紅葉は、さっと顔を逸らした。 「ぷっ」 「へっ?」  隣からふきだす声が聞こえたから、久美は紅葉の方を向いた。すると、彼女は口元を隠して、笑いをこらえている。 「え、っと、どしたの、今近さん」  急に笑い出したなぞの少女にびっくりして、久美はぽかんとした表情をした。 「ううん。なんか、なぞかけみたいだったから。その、ととのいました、ってやつ。……ふふっ。わざと、それ」 「い、や、わざとじゃないよ。ぐうぜん」 「そっか。……ふふ」 「おもしろかった?」 「ん。つぼ。……ふふ。くやしい」  ふふふ、ふふふ、と、紅葉はお腹を抱えて笑う。久美はなにがそんなに面白いのかわからない、と困惑するとともに、こんなに笑っている今近紅葉はもしかしたらツチノコ以上に珍しいんじゃないか、と思って、ちょっと嬉しくなった。 「はー」 紅葉は目じりに浮かんでいた涙を指で拭って、一つ息をつく。でも、すぐに我に返ったみたいに真顔になって、三秒くらい固まった。そして、ぽつりと、 「ひさしぶりに、いっぱい、わらった」  ひどく弱々しい声でそう言って、首をかしげる。そして久美の顔を見て、きょとん、と、不思議そうな、でも、不安げな表情を見せた。 「……だいじょうぶ?」  久美はその表情に、思わずそう尋ねた。紅葉は「うん」と頷いて、またうつむく。それで、また数秒固まって、ちょっと寂しそうな顔になった。 「それで、ととのったんだよね」  紅葉はさっきの笑いをごまかすみたいに久美に尋ねる。 「あ、うん。えっと、私は、その、タバコの匂いが好きです。そして、今後タバコの匂いを嗅ぐ機会が減ったことに残念だ、と思ったわけです。だから、お父さんがタバコをやめたことは残念です」 「ふうん」  紅葉はもう残りも少なくなったカルピスの缶を両手で包むように持って、うつむいたまま相槌を打つ。だけど、久美はまだ言葉を続けた。 「それで、ここに来るとき、今近さんがタバコを吸って、その匂いを嗅げることをちょっと期待していたので、そうでなかったのでちょっと残念でした」 「……ふうん」 「いじょう」  そして、二人の間に言葉がなくなる。久美はコーラの缶をベンチにおき、両手を膝の上にちょこんと添えて隣の紅葉の様子をじっとうかがっている。一方紅葉は両手でカルピスの缶を持ったまま、うつむいている。  太陽が、高くなってきた。ベンチを覆う影が小さくなってきて、久美のコーラの缶が日差しの下にさらされる。久美はそれに気が付いて、缶を手に取り、ちょっと、紅葉の方にずれる。 「タバコ、なんで吸ってるの」  久美は、うつむいたまま動かない紅葉に、そう尋ねてみた。紅葉は表情を消し、久美を見て、またうつむいてカルピスの缶の飲み口に目を向けて、 「おとなに、なれるとおもって、むかし」  小さな、抑揚のない声で、そう、答えた。 「おとな?」 「うん」  紅葉は、まるでそこから過去を覗き込んでいるみたいに缶の飲み口を凝視したまま、頷く。 「なれるわけ、ないんだけど。でも、それからやめられなくて。父親のやつを、ないしょで。あのひと、たくさんまとめ買いしてるから、ひと箱くらい減っててもばれなくて」 「……そう、なんだ」  沈黙が、しばらく、おりる。セミの鳴き声が、久美にはちょっとうるさく感じた。 「……ねえ、このはなし、もうやめるね」  紅葉は首を振って、そう宣言した。そして、残っていたカルピスをぜんぶ飲み干して、缶をくしゃりと握りつぶす。  紅葉は、久美の方にくるりと顔を向けて、 「タバコ、吸ってほしい?」  うっすらと笑いながら、ポケットから黄緑色の箱と、オレンジ色の百円ライターを取り出して見せる。久美は、あっと声を出した。 「それ、お父さんのと、同じタバコ」  パッケージに表示された、やけに古臭いフォントの平仮名三文字を見て、久美はそう呟く。紅葉はふふっと笑い、「貧乏くさいの吸ってるね」と言って一本取り出した。そしてそれを咥えたまま、ライターで火をつける。大して風もないけれど左手でライターの風よけを作るのは、癖なのだろう。 「もうすぐ枯れそうな名前のボクには、皮肉なタバコだよね」  すぅっと煙を吸い込んで、ぷぅっと吐き出す。風が吹いていなかったものだから二人の顔の周りに白い煙が漂って、それが、ちょっと久美の目に染みた。 「このにおい、すき」  右手で目をこすりながら、久美は笑う。そして、すっと煙を胸いっぱいに吸って、けほけほと咳をした。 「あんまり、吸い込み過ぎない方がいいよ」  ぱたぱたと手で煙を扇ぎながら、紅葉も笑う。そして、またぷぅっと煙を吐き出した。 「ふふ。あはは」  顔の周りに漂う煙にじゃれつくみたいに久美は首を振って、嬉しそうに声を上げる。紅葉はタバコをくわえたまま目を細めて、そんな久美を見つめている。その目は、少しだけ、うるんでいるようにも見えた。 「かわってるね」  紅葉は久美に言う。久美はにやりと笑って、 「ちょっとだけ、悪くなりたかったから」 「なにそれ」  煙の中で、二人して笑う。だけどやがて風が吹いて、煙はさあっとかき消されていった。そしてただ、一筋の紫煙が紅葉のくわえるそれの先から流れるだけ。 「暑いね」  ひとしきりタバコの香りを堪能した久美が、少しだけくらくらした頭でそう言った。紅葉は人差し指でとん、とタバコをはじいて灰を地面に落とし、それをぐりぐり踏みにじりながら、「なつだもん」と答える。  セミの鳴き声が、少しだけ大きくなった。風は、少しだけ強くなった。ベンチを覆う影は狭くなっていき、久美と紅葉の距離が否応なく縮まる。二人はさっきよりも近くにお互いを感じながら大百区の景色を眺めて、どちらともなくわらった。 「はあ」  紅葉は屈んで地面にタバコをぐりぐりと押し付けて、火を消す。そして近くの灰皿に放り込んだ。 「これで、まんぞく?」  紅葉はポケットに手を突っ込んで、ベンチに座って自分を幸せそうに見つめている久美にそう尋ねる。久美はえへへ、と笑って、 「うん、ありがと」  と答えた。紅葉は、でもそんな久美の笑顔にちょっとだけ表情を暗くして、「そ」と相槌を打つ。そして、一瞬言葉を探して、「ボクはもう、行こうと思うけど」といった。 「明日も、」  だから久美は、口を開く。 「ジュースとお菓子、持ってくるから」 「うん」 「来て」 「……わかった」  柔らかい声で答えて、紅葉は、それでも、久美にはわからないくらい微かに、顔をゆがめた。そして踵を返して、歩き出す。 「またね!」  久美がその背中に声を投げかけると、紅葉は背を向けたまま手を振った。だから久美は、紅葉からはこっちが見えていないことは百も承知で、大きく手を振る。紅葉の背中が見えなくなるまで、降り続ける。  やがて、紅葉の姿は消えた。久美は手を下ろして、紅葉が歩いて行った方を眺め続ける。 「……ふふ」  今日は、たぶん、仲良くなれた。  久美はそれがうれしくって仕方がなくって、ベンチの上で一人でふんふんと首を縦に振る。その度に、服に残ったタバコの匂いが香って、さらにうれしくなる。  八月が、間近に迫っていた。一番暑くなる季節。日差しはさらに厳しさを増して、入道雲はさらに大きく高くなっていく。山の木々にびっしりと張り付くセミどもはその声量をひたすらに大きくして、景色のやかましさを増幅させていく。  木陰の中で、木漏れ日を浴びて、久美は、この季節を全身で楽しもうとしていた。明日も、明後日も、その後も、きっと。
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