アンチサイクロン

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✿2016年七月二十九日  午後八時。紅葉は静かに扉の穴に鍵を差し込むと、音が響かないようにそっと回した。そしてこれまたそっと扉を開き、中に入る。  部屋の中は真っ暗だった。入ってすぐそばにおいてある冷蔵庫がぶぅぅんと唸る音だけが響いている。家はワンルームのアパートで、扉を開けてすぐの場所に冷蔵庫やシンクがある。そしてそのスペースと居住スペースは長い暖簾で仕切られている。紅葉は暖簾をくぐると誰もいないことを確認して、電気をつけようと壁際のスイッチに手を伸ばした。だけど向かいのコンビニの照明が窓から明るく入り込んできていたから、やめておく。  小さな机が、真ん中に一つ。南側の壁際にはずっと干されていない布団が一つ。そして西側にはタンスと、小さい布団。東側には本棚が一つだけ。床には雑誌やDVDが散乱していて、ごみ箱はあふれている。紅葉がふと机の上に目を向けると、灰皿の隣に半額シールの貼られたいなりずしのパックが置いてあった。  紅葉はそのパックを手に取ると、とすん、と、西側の小さな布団の上に腰かけた。そしてパックを開き、一つつかんでもそもそと食べ始める。  砂を食べてるみたいだ。  せっかく今日はご飯があるっていうのに、紅葉はまるで味らしい味を感じられなかった。一人で、この散らかった汚い部屋で、ただいなりずしを淡々と胃におさめていく。  これなら、昼に食べたポテチの方が。  そう思ってしまって、紅葉ははっとする。七月下旬の熱帯夜だっていうのに、紅葉にはこの暗い部屋がなんだかとても寒く感じられた。  栄養を押し込む。五つあったいなりずしを飲み込んで、パックをゴミ箱に放り込んでおく。明日はゴミの日だから、紅葉は後でゴミ袋をまとめておくことにした。  ポケットからライターを取り出して、火を灯す。だけどタバコに火をつけようとはしない。ただちらちらと揺れる炎をぼんやりと眺めるだけ。  ぶぅぅん、という音だけしか聞こえない。父親がいつ帰ってくるのか、それとも今日は帰ってこないのか紅葉にはわからなかったけど、今日はずっと帰ってこないでほしいと、久しぶりにそう強く願った。
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