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☼2016年七月三十日
浅くなった眠りの中で、ぴっしゃあ! という音が響き渡った。
その時、久美は南極大陸で二百キロのマラソンをする夢を見ていた。息を吸うのも辛いくらい冷たい空気の中で、なぜか久美はスクール水着でつるつる滑る氷の中をただひたすらに走っていた。髪の毛もまつげも眉毛もとうの昔に凍ってしまって、唇はひび割れて血がとめどなく流れ出してくる。関節も腱も凍えてしまって、動かすたびにみし、ぎし、っと嫌な音を立てている。口で息を吸っているものだから、冷気がのどに張り付いて、かき氷を掻きこんだ時の百倍くらいの痛みがぐしぐしと頭に響いている。皮膚の表面はもう感覚を失って、ただ筋肉と骨の奥の方にずきんずきんとした疼痛を感じる。目はとっくに凍ってしまって、瞼のうらは眼球と張り付いてしまってとじることができない。それでもなぜか目の前の光景ははっきりと見えてしまう。見渡す限り真っ白な、何もない雪原。だけど久美の足元だけ、やけに滑る氷になっている。そして、ひたすら寒いのに、日差しだけが、やけに、まぶしい。
なんで、走っているんだろう。
もうほとんど凍り付いてしまった脳みそを何とか動かして、自分に問いかける。でも何も答えは返ってこない。
『125㎞』
ふいに、前方にそう書かれたプラカードをもった力士が現れた。そして久美が近づいてくるのを見ながら四股を踏んで、通り過ぎようとする寸前、力士の周りの地面が崩壊して、彼は脂肪をぶるんぶるんと震わせながら落ちていった。それで久美は、がんばらなきゃあ、と思ってペースを上げる。そのせいで、凍っていた髪の毛がぱりぱりと割れて落ちていった。
「――っ!」
突然、後ろから多くの喚き声が聞こえた気がした。だから久美はぎしぎしと音を立てながら首を後ろに向けてみる。すると、一万はくだらないくらいの人数の人々が雪煙を上げながら久美を追いかけてきていた。彼ら彼女らはタンクトップだったり、全身タイツだったり、バニーガールだったり、制服だったり、作業服だったり、全裸だったり、思い思いの恰好で、走ったり、歩いたり、這ったり、バク転をしたり、自転車に乗ったり、思い思いの仕方で久美を追いかけている。そして一様に、「砕けろ!」と叫んでいた。
だから、久美はぴきぴきと音を立てながら笑顔を作って、でも、その時、ぴっしゃあ! という音が響き渡ったのだ。
その音で、まずは左足がもげた。ぱきっと小気味いい音を立てて脚は地面を転がり、そのせいでバランスを崩して久美は氷の上を転げる。その衝撃で、両腕と右足がポロリと胴体から外れて、最後には首ももげた。
「ああ、完走できなかった」
久美の生首は不満そうな声でそう言った。そして、生首は誰かの影に覆われる。
「ざーんねん」
その誰かが、抑揚のない声でそう言った。そしてその人物はぷぅっと煙を吐き出すと、手に持っていたタバコをぽとりと落とす。するとその熱が氷をみるみる融かしていって、びしっと雪原に亀裂が入る。そしてその亀裂はどんどん大きくなっていって巨大なクレバスとなり、久美の残骸を飲み込んでいった。
「いまちか、さ、ん」
暗い割れ目に落ちていくなか、久美の生首はそう口を動かした。そして、胴体はつながっていないはずなのに内臓がふわっと浮くようなくすぐったい感覚がして。
「わあっ!」
久美は小さく叫び声を上げて、がばっと起き上がった。途端に、景色がめくれあがって薄暗い自室の、薄汚れた壁が目に入る。
「……へんな、ゆめ」
乱れた呼吸を何とか収めようとしながら、手の甲で額を拭う。
「わ」
おでこは、びっくりするほどに汗でぬれていた。久美は手の甲を寝間着のシャツでごしごし拭いて、深くため息を吐いた。
鮮明に見えていたはずの夢の景色がだんだんと薄れていく。はっきりとしていたはずの感覚の記憶が、だんだんとなくなっていく。確かに言ったはずの言葉を、聞いたはずの台詞を、だんだんと忘れていく。それが、微かに悲しくて、もやっとして、でも、ほっとする。
「あ、つぅ」
部屋の中は、クーラーをつけずに寝たものだから、ひどくじめじめとしていた。そのせいで体に掛けていたタオルケットも、枕に巻いていたバスタオルも、ぐっしょりと濡れている。
久美は、ふと窓の外を見てみた。まだ暗いけど、時折ちかちかと空が青白く光り、ごろごろと唸るような音が響いている。そして、地面をさかさかと打つ雨の音も、微かに、聞こえる。
「あめ」
久美は枕もとの目覚まし時計の文字盤を照らして、時刻を確認する。午前四時十五分。起きるには、だいぶ早い。だけど久美は立ち上がって窓のそばに歩み寄り、網戸を開けて、顔を突き出した。そして、じっと外の様子をうかがう。
雨の音は、確かに聞こえる。だけどそうひどいものではない。それに雷鳴も響いてはいるけど、光と音の時間差がだんだんと長くなっているから、雷雲が遠ざかっていることがわかる。
「これなら、朝までには、晴れる?」
久美は窓を閉めて、部屋を出る。明かりはないけど歩きなれた廊下を、足音を立てないように進んで、居間へ。電気をつけて、テレビのリモコンの赤いボタンをぽちり。そしてdボタンを押して、お天気情報を確認してみた。
「よし」
今日は、六時から晴れ。最高気温は三十七度。久美にとっては何の問題もない天気だった。久美は胸をなでおろして、テレビの電源を切る。そして朝を待つために自分の部屋に戻ろうとして、
「久美?」
「わひゃあ!」
いつの間にか居間の目の前に立っていたお母さんに声をかけられて、腰が抜けそうなくらいびっくりした。
「わ」
だけどお母さんの方も久美の叫び声にびっくりして、小さく声を上げた。そして二人はお互いを見つめあって、くすくす笑いあう。
「久美、どうしたの。起きちゃった?」
「ん。雷、すごくて」
「そうねえ。私も。天気予報みてたの?」
お母さんは久美の持っているリモコンを眺めて、そう尋ねる。
「うん。六時から晴れだって」
「そう。よかったわねぇ」
お母さんはまだねぼけた声でそう言って、大きなあくびをした。久美もそれにつられてあくびをする。そして、テレビのリモコンをちゃぶ台の上において、
「私、部屋に戻るから。また、あとで」
「ん。そうね。じゃあおやすみ」
「おやすみ」
久美は居間を出て、自室へ戻る。
ねむるつもりなんて、これっぽっちもないけどね。
久美はぺろりと舌を出して、窓際に座布団を引っ張ってくる。そして二日前の朝と同じようにして、窓の外を眺めた。
今日も、今近さんはタバコを吸ってくれるかな。
昨日のことを思い出してにやにやと笑って、久美はわくわくを押さえきれないみたいにもじもじと体を動かす。
今日は、なにを持って行こっかな。
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