14人が本棚に入れています
本棚に追加
午前十時。玄関を出ると、早朝の雨が嘘だったみたいに晴れ渡っていた。草木も地面も家々も雨に濡れた様子は全然なくて、まぶしくてさわやかな夏の日差しを色とりどりに跳ね返している。
そう言えば柊は今日、佐賀に旅行に行くんだっけ。
久美は頭の中で日本地図を取り出して、佐賀県の位置を確認する。九州の北の方。福岡と長崎に挟まれた県。
名古屋から行くなら、飛行機かな。
それとも新幹線?
きっともう名古屋を発っているんだろうな、と、柊の白いワンピースをどこか懐かしく思いながら、久美は歩き出す。
住宅街の狭い通りを抜けて、大通りに出る。まあ大通りとは言っても、道のわきには森とマンションとドラックストアくらいしかないのだけど。
まっすぐと大通りを歩いていくと、やがてコンビニが見えてきた。そこを右に折れて、しばらく進むと例の階段があらわれる。そこをのぼっていけば、きっと紅葉が待っているあの神社が……! 久美はちょっとだけ速足になって、階段に近づいていく。
でも。
「ねえ」
後ろから、よく知った声でそう声をかけられた。
昨日も、こんなことあったなあ、なんて、久美は頭のどこかでそんなことを思いながら振り返る。するとそこには、水色と白でストライプの襟付きシャツに、ベージュ色のガウチョパンツをはいて、頭には白の中折れ帽をかぶった、不機嫌そうな顔の加奈がいた。帽子からはみ出したボブの髪の毛をくりくりといじる右の手首には、いつか久美が渡したミサンガが結ばれている。
「あ、と。ひさしぶり、加奈」
久美は片手を上げて、そう笑いかける。だけど加奈は不機嫌そうな顔のままざりざりとサンダルでアスファルトを踏みしめながら久美のもとに歩いてきて、一メートルも離れていない場所で立ち止まった。
「えーっと。どうかしたの、か、な? なにかあった?」
加奈は背が低い方なものだから、久美を見上げる形になっている。それでも太陽の光に目を細めることもなく、じぃっと久美の目をにらみつける。
加奈は、焼けてないなあ。
久美は加奈の真っ白な腕やほっぺたを見て、そう思った。聞くところによると加奈はもともとからあまり焼ける方ではないらしいし、どちらかと言えばインドア派だから、夏の日差しが彼女を焦がすことは難しいようだ。
そんな、白い顔で、表情も白いまま、加奈はぽつりと。
「今近と、会うの?」
「えっ」
なんで、それを。
自分が紅葉と会う事を加奈が知り得るはずもないのに、なんで加奈は今近紅葉の名前を出したんだろう。
それを知っている人なんて、
「……あ。まさか、柊に」
加奈は、小さく頷いた。
「うん。柊と昨日会って。それで、久美が今近と会ってるって聞いた」
「そう、なんだ」
口止めしたのに。
白いワンピースの柊がぺろりと舌を出している姿が、久美の脳裏に浮かんだ。だから夏が開けたら懲らしめなきゃ、と思うと同時に、この状況はもしかするとまずいやつだろうか、とも思って、ちょっと焦った。
「会うの?」
そんな久美の心情なんて気にしないで、加奈はもう一度、そう問うてくる。久美は、ここで嘘をついても仕方がないから、正直に「うん」と答えた。
「仲いいの、今近と」
これ、昨日も柊に聞かれた気がする。
「どう、だろ。たぶん仲いいとおもう」
一緒にタバコの煙に包まれる仲なんだから。そこまでは言わなかったけど、久美は昨日の紅葉の笑顔を思い浮かべて、そう答えた。加奈は、その返答を聞くなり、間髪入れずに、
「なんで」
短く、それだけの言葉でまた問うてきた。
「なんで、って、なにが」
「なんで、仲良くできたの」
加奈、怒ってる?
久美は加奈の口調に首をかしげながら、
「えっと、いい子だよ、今近さん。一緒にいて、楽しいし」
だけど加奈は、首を振る。そして一歩分久美と距離を取って、ため息を吐いた。
「そうじゃなくて、なんで、今近の方は久美を無視しないで仲良くするの、ってこと」
「ああ、それは、」
答えようとして、でも久美は、はたと言葉を見失った。なんで今近紅葉は自分と仲よくしてくれるのか。それは、昨日も久美自身が思ったことじゃないか。
「なんでだろ」
久美は、ぽつりとつぶやいた。加奈は、すこしだけ顔をしかめる。
三日前に久美は紅葉に「来て!」とお願いしたわけだけど、冷静に考えてみればそこで紅葉が神社にやってくる道理はない。
いつもの今近さんなら、あの日、私の頼みなんて無視するはずなのに。
だって、今近紅葉にとって久美たちは敵だったのだから。
そして、もし紅葉が久美の「来て!」という頼みを聞いていなかったなら、それ以降のやり取りもなかったわけで。つまりあの日紅葉が久美の言う事を聞いた理由がわからない以上、なんで久美と紅葉が仲良くなれたかは分からないのだ。
「……ごめん、わかんない」
「わかんない、って……」
加奈は不満そうな声を出す。だから久美は慌てて、
「あ、でも、お菓子を持って行ったら、喜んでた、と、おもう」
「餌付けしたの?」
「餌付けじゃあ、ないよ。会話を盛り上げるために」
お菓子を食べている間は、結局ぜんぜん盛り上がらなかったけど。
「ふうん。でも、それのおかげじゃないの?」
「う、ん。たぶん」
加奈はうつむいて、「そっか」とつぶやいた。そして納得いかないような顔で五秒くらい黙り込んで、でも、顔をあげて笑った。いつもよりも、硬い、笑顔だったけど。
「ごめんね、久美、呼び止めちゃって。ちょっと、それが聞きたくって」
えへへ。と、口元を緩めて見せる加奈。だけど久美は、あ、作り笑いだ、と思った。
「あ、えっと、うん。それはいいけど」
「そ。じゃあ」
加奈は右手を上げて、行ってしまおうとする。だけど久美は、その右手首にまかれたミサンガに引っ張られるみたいに自然に手が動いてしまった。
「あ」
加奈の右手首をつかんで、彼女を振り向かせる。そして、久美は「どうか、したの」と訊いてみた。白くて、細い手首。久美の親指が偶然脈に触れていたものだから、とくとくと加奈の鼓動が伝わってくる。
あれ、脈、はやい。
「どうも、しないよ」
加奈は、ぐっと手を引っ張って久美の手を振りほどこうとするけど、久美は力を入れて、放そうとしない。そして、
「うそ」
そう言って、持っていたカバンを地面に放って、左手で加奈の肩を押さえた。だから彼女はあきらめたように右手の力を抜いて、顔をうつむけた。白の中折れ帽のせいで、加奈の目は見えなくなる。
「あの、ね」
加奈はうつむいたまま、小さく声を発する。
「絵の具の、水」
「絵の具?」
「そう。絵の具の水。あいつにわざとこぼした時、あったじゃん」
絵の具の水を、こぼした時。久美は記憶をたどって、六月も末のあの事件を、思い出した。
最初のコメントを投稿しよう!