アンチサイクロン

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あれは、六月二十五日のことだった。昼休みも終わり、五時間目の美術の授業の時。その日の授業は『大事な人に感謝を伝えるポストカードをかいてみよう』で、四人で班を作って、机をくっつけていろいろ話し合いながら自分の作品を完成させていく授業だった。中学生にもなって、子供っぽい授業だと久美は思ったものだ。班は席の座り方に従って作られていたから、加奈や柊や唯香と離れた席に座っていた久美は一人だけ運悪く違う班になってしまった。そして、久美の班には、紅葉もいた。  紅葉は案の定何もしゃべろうとしなかった。だから久美は他の男子二人と適当に喋りながら適当にポストカードをかいていた。たしかその時久美の想定していた「大事な人」は、福沢諭吉だった。だって一万円札に書いてあるから。その他の皆も大体そんな感じだったらしくて、好きなアイドルだったり、ミュージシャンだったり、なぜか政治家だったり、思い思いにふざけて書いていた。本当は、家族とかを「大事な人」とするのが恥ずかしいお年頃だったからでしかないけど。  久美は下書きが大体終わったあたりで、対角線上に座っている紅葉の手元をちらっと盗み見た。だけど、彼女のポストカードの用紙はまだ真っ白で、紅葉はペンも持たずにじっとしていたのだ。 「今近、さん」  だから久美は、紅葉に声をかけてみた。その時、おんなじ班だった二人の男子が息をのんで黙り込んだのを、鮮明に覚えている。 「何書くか、決めた?」  だけど紅葉は、久美の言葉になんの反応もしないでただじっとうつむいていた。 「今近、さん?」  久美は班の男子どもと目配せをして、もう一回声をかけてみる。だけど、無反応。それでも久美はあきらめないで、もう一度、 「今近さん」 「うるさい」  短く、小さな声で、しかし鋭く、紅葉はそんな言葉で久美を切りつけた。だから久美はぽかんと口を開けて、男子どもを見てみた。だけど男子どもは首を振って、肩をすくめた。だから久美はあきらめて、自分の作業に集中し始めた。ときおり班の男子と言葉を交わしはしたけど、どこかぎこちなくなってしまった。  そうして、二十分くらいして。教卓に座っていた先生が手を叩いて、「はい、そろそろ片付けろー。続きはまた次の授業だー」なんて、どこかやる気のない声で叫んだ。だから教室の中のもともと緩んでいた空気はさらに弛緩して、生徒たちはばらばらと席を立つ。作りかけのポストカードを教室の後ろの乾燥棚に置きに行ったり、絵の具の水を棄てに行ったり。  久美は、紅葉のポストカードをまたちらりと見た。だけど、彼女の用紙はまだ白紙のままだった。  なにも、思いつかないのかな。  久美はそう思いながら、諭吉の顔がやけにリアルに描かれた自分のポストカードを乾燥棚の上に運ぼうとして立ち上がった。しかしその時、あの空気の匂いがぷんとして、はっと教室を見渡した。  あ。  久美は、加奈が絵の具の水の入ったバケツを持って、紅葉に近づいて行っているのに気が付いた。  まさか。  久美は、息をのんだ。その時、クラスの中の雰囲気が何となく、きな臭い気がした。みんながみんな、何が起きようとしているのかわかっていて、それでもみんながみんな、それに気が付いていないようなふりをしている、白々しい、作り物めいた何気ない空気の匂いが、したのだ。 「あ、っと」  加奈は、紅葉のそばで、ちょっとだけ絵の具の水の入ったバケツを揺らした。汚れた水のしぶきがピッと跳ねて、そのまま、紅葉の服に飛んでいく。そのとき、加奈がにやっと笑った気がして、久美はずきっと胸の奥が痛んだ。  でも次の瞬間、加奈の表情がこわばった。何かにつまずいたかのように体がつんのめって、水の入ったバケツは加奈の手から離れていったのだ。 「あ!」  誰かが、叫んだ。そして、景色がスローモーションの映像みたいにねばついた動きになったように見えた。  加奈の手から離れたバケツが、飛んでいく。揺れてうごめく水がバケツから飛び出して、まるで意志を持った生き物のように、滑らかな触手めいた水面が紅葉に向かって伸びていく。  びたん、と、加奈は床に顔からこける。だけど、そんな事がどうでもよくなるくらい大きな音を立てて、水がバケツごと紅葉の頭に覆いかぶさった。  そして、二つの大きな音の後は、静寂が教室を包む。クラスのみんなが言葉を失い、先生は口を開いて呆然としていた。加奈は倒れ伏したままゆっくりと顔だけを動かして紅葉を見つめる。だけど紅葉は、加奈を見てはいなかった。  ぴしゃ。  汚れた水で形作られた水たまりを踏みつけながら、紅葉は一歩、左足を踏み出した。  紅葉の視線の先には、一人の男子がいた。真面目で有名な河合君。彼は青い顔をして、濡れ鼠になった紅葉を見つめていた。おびえた目をして、小さく首を振って。  だから久美は、あ、こいつが加奈の足を引っかけたんだ、と思った。  がっしゃあん! でも、久美がそう気が付いた瞬間、大きな音を立てて、河合君は机ごと吹っ飛んでいた。彼は右半身を強く打ち付けながら床に倒れて、お腹を押さえて転げまわる。顔を真っ赤にして、苦悶の表情を浮かべて、でも息が吸えていないのだろうか、声も出せずに、餌を求める鯉みたいに口をパクパクと動かしていた。 みぞおちを、蹴られたんだ。 久美には全部が見えていた。紅葉は左足を踏み出したあと、それを軸にして体を素早く半回転させ、その勢いのまま軸に引き付けた右足を思いっきり河合君のみぞおちに突き刺すみたいに放ったのだ。紅葉は、華奢だが身長は高い。しかもまるで空手の型で見るような綺麗なフォームでみぞおちを蹴りつけたのだ。その威力は中学一年生の男子を吹っ飛ばすのには十分だった。 一瞬、教室は水を打ったように静まった。だけど次の瞬間、その現場を中心に叫び声が伝播していった。そして、瞬く間に教室は叫び声に包まれる。それは主に女子の甲高い声で、男子はただ目を見開いて硬直しているだけだったのだが。 ぎろっと、紅葉の視線が動いて、加奈に向いた。倒れ伏したまま河合君が吹っ飛んでいくところを目撃した加奈は、顔を真っ青にして、這うようにして紅葉から離れようとする。だけど紅葉はばっと加奈にとびかかって、彼女を押さえつけた。そしてその勢いで、二人の顔がぐっと接近する。 「ああ!」  誰かが叫んだ。いや、皆叫んでいた。 だけど意外なことに、二人はそのまま、数秒間動かなかった。だけど紅葉はゆっくりとこぶしを振り上げて、しかしすっ飛んできた先生に取り押さえられて、加奈から引きはがされた。 意外なことに、紅葉は抵抗しなかった。素直に立ち上がって、騒ぎを聞きつけて教室の前まで駆け付けた他の先生に連れられて行った。だから美術の先生はすぐに転げまわる河合君に大丈夫かと声をかけ、彼を担いで保健室まで連れて行こうとする。 久美たちは、紅葉に組み伏せられてからそのままの体勢で震えていた加奈に駆け寄って、声をかけた。加奈も半身が汚れた水に浸かっていて、だけどその表情は、怯えが混じりつつも、どこか困惑したようなものだった。 「だいじょうぶ?」  唯香が加奈の手を取って、彼女を起こす。そして背中をさすりながら、「ひどいね、あいつ」と、加奈を慰めるみたいな声で言う。周りにいた皆が頷いて、口々に悪口を言い始める。  ああ、あの匂いだ。  久美は気持ち悪くなって、心の扉にカギをかけようとする。でも、その輪の中心にいた加奈は首を振って、はっきりと、 「ちがう」  と言った。それで、皆ぴたりと口を閉じる。  すぅっと、あの嫌な空気の匂いが消えた気がした。だから久美は、じっと加奈の顔を見る。加奈は、首を振って、 「ちがうんだよ」  と、またつぶやいた。  だからみんな顔を見合わせて、首を傾げた。 「田中!」  教室の入り口から、先生の声が聞こえた。加奈は立ち上がると、誰とも目を合わせようとはしないで先生の下に歩いて行った。  ――ちがうんだよ。  そんな言葉を、加奈が言ったからだろうか。その日から、今近紅葉に対する嫌がらせはなくなった。ただ、クラスの異物として、「やばいやつ」として、誰も関わろうとしないし、あちらからも関わろうとしてこない、そういうものとして、今近紅葉は教室に存在するようになったのだ。
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