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そんな、ひと月くらい前の事件。
それが、今、加奈が久美に言った「絵の具の水をこぼした時」のことだった。
「ああ、あったね、そんな時。でも、それがどうかしたの?」
「あの時、あいつ、たぶん泣いてたから」
加奈の手が、少しだけ震えているのが分かった。
「泣いてた、って……」
「今近が私に馬乗りになったとき、あいつ、泣いてた。いっつもさ、平気そうな顔してたのに、あの時は泣いてたんだよ。でもすぐに元通りの顔に戻ってさ。たぶん、いっつもそうだったのかな、って、思って。だけど、いっつも私たちは大丈夫だって思ってたじゃん」
私たち、っていう言葉と、大丈夫だと思っていた、という言葉。それが昨日の柊の言葉とまるっきり重なった。
「いじめ、なんだって、そのときやっと分かって。謝らなきゃって、思ってたんだけど、でも怖くて、近づけなくて」
そして、加奈はすっと顔を上げて、影の中の目を久美に向けた。
「だから、なんで、久美は今近と仲良くなれたんだろうって、気になって」
加奈は、ぐっと奥歯をかみしめたような顔になる。久美につかまれた右手は小刻みに震えて、両の目でじいっと久美をにらみつけている。だから、久美は、
「それだけ?」
加奈は、ほんのわずかに目を見開いて、視線を逸らした。そして、小さく首を振る。
「うらやましいなって、ちょっとだけ、思ってる」
「うらやましい?」
「そう。しっと」
「座るの?」
「ちがう。嫉んで妬むの」
ふっと、加奈は自嘲気味に笑った。
「最初に今近を見た時、私、ちょっと、なんていうか、わかんないんだけど。びっくりしたっていうか、いいなあって思ったっていうか」
「ときめいた」
ぴたっと、加奈は動きを止めた。それで、ふふっと笑う。
「そうそれ。多分ときめいたから。だから仲良くなりたいって思ってたんだと、おもう。それなのにあいつ、無視するから」
「……なんか、男子みたい。加奈」
「うるさい! わかってるよ!」
加奈は顔をかっと赤くして、久美につかまれていた右手を振り払う。そしてくるっと踵を返して、
「私もう行くから! またこんど!」
怒ってるんだか恥ずかしがっているんだかよくわからない声で怒鳴って、加奈はずんずんと歩き出す。でも久美は、とっさにその背中に、呼びかけていた。
「加奈、一緒に、行こうよ。今近さん、上にいるよ」
加奈は、ぴたっと動きを止めた。でも、首だけで振り返って久美を見据える。
「たぶん、むり」
その目は、うっすらとうるんでいるように見えた。
「なんで」
「だって、どんな顔で会えばいいか、わかんないもん」
じゃあ、また。加奈はそう言って軽く手を振り、速足で去っていく。久美はもうその背中になにかを言う事はできなくて、彼女の姿が見えなくなるのを眺めているだけだった。
「……よわむし」
加奈が角を折れて、姿を消す。久美はぽつりとつぶやいて、階段に向かった。
一段、足を踏み出す。でも久美は、胸の奥の方で、じくり、と、もやもやした黒くて紫色の空気みたいなものがうごめいた気がした。
なんで、今近さんは私と仲良くしてくれるんだろう。
なんであの日、来てくれたんだろう。
私は今近さんの、敵だったのに、今近さんをいじめてた、ひとりだったのに。
一段一段登っていくほどに、不安めいたものが大きくなっていく。この数日で、きっと、久美はクラスの誰よりも紅葉と仲良くなっている。一緒にお菓子を食べたし、一緒にジュースを飲んだし、いろいろ喋ったし、タバコも、久美は副流煙だけだったけど、一緒に吸ったようなものだし。でも、その理由がわからない。
わからないってことは、もしかすると、何か、私は勘違いをしているのかもしれない。
森の緑色の匂いが、いつもより鼻につくような気がした。セミの鳴き声が、いつもより耳にまとわりついてくるような気がした。流れる汗が、いつもよりもねばついているような気がした。
確かめなくっちゃ。
昨日、久美はあのいじめのことを紅葉に謝った。その事実が少しだけ、自分を勇気づけているように感じた。
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