アンチサイクロン

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「今日は、寝てないんだね」  久美はベンチに腰掛けると、右手の人差し指と中指でタバコを挟んで、ぼうっと景色を眺めている紅葉に声をかけた。紅葉は煙を吸って、吐き出すと、「うん」と短く答えた。  加奈を連れてこなかったのは、まあ、正解だったって事なんだけど。  さすがにタバコを吸っているところを見られるわけにはいかないから、久美はほっと胸をなでおろすとともに、あんまりめったなことはできないな、とも思った。  白い煙が、ふわっと久美の方に流れてくる。 「ふふっ」  久美はそれをすっと吸い込んで、けほけほと咳をしながら笑った。ちらりと紅葉を見てみると、彼女はうっすらと口元を緩めていた。 「今日は、サイダーと、りんごジュースと、ぶどうジュースがあります」  ほんとは、久美はすぐにあのことを確かめたいと思っていた。だけど出会っていきなりそんなことを訊くと、たぶん変な空気になるだろうな、と思って、とりあえずいつも通りにふるまってみせる。 「ぶどう、かな」 「ぶどうジュースね」  久美はカバンの中から保冷バッグを取り出す。その時、ちりん、と、小さな鈴のストラップが揺れた。紅葉はタバコを地面でぐりぐりともみ消して、ベンチを立って、吸殻を灰皿に放り込む。そして、そのストラップをちらりと見て、 「それ、末木とおんなじやつ?」 「ああ、このストラップ? そうだよ、柊とおそろい」  久美はストラップを指ではじいて、ちりん、と音を出してみせる。小六の修学旅行の時に二人で同じものを買ったのだ。 「友達のあかし。ほら、流行ってるでしょ、同じものを身に着けるの」  そう言って、久美は、あっと思った。 「ああ、言ってたね。この前、たしか。田中とはミサンガだっけ」  紅葉は興味なさげにそう言って、久美の隣に座った。そして、ぶどうジュースを受け取る。  ――今近さんは友達いないから知らないかもだけど。  以前トイレ掃除のときにそう紅葉に言ってしまったことを思い出して、久美は胸の奥の方がずきりと痛くなった。あの時はちゃんと謝ったはずだけど、それでも紅葉にとっては嫌な思い出なはずなのだ。 「うん。そう、加奈とはおんなじ糸を使ってお互いに作ったのを交換して」  もう、切れてしまったけど。 「ふうん」  ぷしゅっと紅葉は缶を開けて、ぐいっと呷る。そして小さな声で、「ん、おいし」とつぶやいた。 「今近さん、さ、あの時のこと、気にしてたり、する?」 「あの時?」 「だから、トイレ掃除のとき。私、今近さんに『友達いない』とか言っちゃったけど」 「ああ」  もう一度、紅葉は缶を傾けた。そして、ふふっと笑って、 「ボクに友達がいないのは、事実だし」 「だけど、それを言われていやかどうかは別の話だよ」 「ん。そうかもね」  紅葉は両手でぶどうジュースの缶を包んで、膝に乗っける。 「でも、気にしてないよ。っていうか、さっきまで忘れてた。よくも思い出させてくれたよね、あのこと」 「え、あ、ごめん、そんなつもりじゃ、なくて」 「しってる。じょうだん」  紅葉はくすくす笑った。それに合わせるみたいに風が吹いて、木漏れ日が揺れる。  久美はほっとして、りんごジュースの缶を開ける。 「あ、今日も、ポテチが、あります」  久美はのり塩味のポテトチップスの袋を取り出して、ばさっと開けた。そして、「どうぞ」と言って紅葉に笑いかける。紅葉は「うん、ありがと」と言って、一枚、摘み上げた。 そして、しばらく二人は黙り込んだまま、ポテチとジュースを口にする。相変わらず、何かを食べるときには会話が弾まなくなる。だけど久美は、最初のころよりも、この沈黙をぎこちなく感じなくなっていた。  あんまり、冗談とか、言わないのにな。  最初のうちは、あんまり、こういう風には笑わなかったのにな。  二人で黙り込んでいても、気まずくなくなってきたし。  でも、なんで、一緒にいてくれるんだろう。  それを訊くのは、でも、やっぱり不安だった。知らないでいた方が、わかろうとしないままでいた方が、ずっとこういう関係でいられる気がした。だけど久美は、昨日の柊の言葉を思い出した。 『これ、あたしの宿題。夏休みの。久美は早く終わらせちゃってね』  久美は確かに昨日、紅葉に謝った。だけど久美にとっては、自分と紅葉の関係の理由を知らない限りは、その「宿題」とやらが片付かないような気がした。  そして、今日、加奈が見えなくなったときに自分でつぶやいた言葉がブーメランみたいになって返ってくる気がした。 『よわむし』  この関係を知らないままでいようとするのは、弱虫そのもので、とても、不誠実な気がした。  ポテチは見る見るうちに減っていって、もう最後の一枚になった。遠慮がちに手を伸ばす紅葉に久美はちょっとだけ硬く笑って、袋は空になる。  今日は、雲がまったく出ていなかった。だから町はいつもより、きらきらと輝いているように見えた。 「……」  セミの声が、小さくなった気がした。  だから久美はゆっくりと口を開いて、何か硬いものでも吐き出すみたいに、喉を震わせて声を出す。 「あの、さ」  久美は空になったポテチの袋を持ち上げて、畳み始める。縦に何回か折って、それを結ぶみたいに。 「今近さん、その、みんなのこと無視してたじゃん」 「……うん」  ぶどうジュースで最後のポテチを飲み下した紅葉は、頷いた。そして、すっとうつむく。だけど久美は彼女の顔を見つめたまま、言葉を続ける。 「いや、だったの? みんなと仲よくするの」  どうしても、単刀直入に効くことができない。だから、遠回りに。 「……ボクは、みんなと仲良くしたら、ダメだから」  紅葉はどこか迷っているような声で、答えになっていないような、そんな返答をする。 「なんで」 「……なんでも。きにしないで」  紅葉は、もう聞いてくれるな、といったように首を振って、アルミ缶の飲み口に口をつけた。それでも久美は、「じゃあ」と問いを続ける。ここで本当の問いをしなかったら、たぶんもう訊くことはできないと思ったから。 「なんで私とはこうして一緒にいてくれるの?」  ぶどうジュースは、もう空だったようだ。紅葉はアルミ缶の上部をつまむように持って、中身がないことを確認するようにふるふる振った。  紅葉は、しばらくのあいだ無言だった。何かに悩んでいるように、迷っているように、だけどじっと見ないと分からないくらい、微かに、表情をじわじわ変えて。久美も、だから、紅葉の横顔を見ながら答えを待った。 「タバコ」  アルミ缶をくしゃりと握りつぶして、紅葉はそう言葉にした。 「タバコ吸ってるところ見られたから。言う事きかなかったら、言いふらされると思って。だから、言う事きいてここに来ただけ」  音が止まった、気がした。久美はその言葉にとん、と胸を突き刺されて、いっしゅん、頭の中から言葉を失う。だけどすぐに、口が勝手に動いて、「ちがう」と言っていた。  ふっと、紅葉は目だけを久美に向けた。  久美には目の前の少女の横顔が、ひどく冷たいものに見えた。いつも教室でみんなに見せている、冷たい光が、今もその目に宿っているように見えた。話しかけてくるな、近づいてくるな。みんな、敵だ。そんな気持ちを実体化したみたいな見えない壁が、今、自分と紅葉の間にどうしようもないくらいの高さで、厚みで、幅で、硬さで、そびえたっているように感じた。 「ちがう、よ」  タバコのことを、言いふらされると思ったから。 それってつまり、今の今まで、ずっと今近さんは自分を敵だと思っていたということだ。 「タバコは、さすがに大ごとだから。知られるとまずいし」 「だから、ちがうって……」 やっぱり聞かなければ、よかったんだ。  よわむしのままでいれば、よかったんだ。  この数日間で出来上がっていたと思っていた、自分と紅葉のちょっと硬いけど暖かい空気が、ぜんぶ、自分の勘違いでしかなかったんだと分かって、紅葉は自衛のために偽りで自分と付き合っていたんだという事がわかって、久美は、ふいに、夏の全部がまるでからっぽのように見えた。  そんなつもりはなかったのに。  ただ、おしゃべりしたかっただけなのに。  なかよくなれたらいいな、とおもってただけなのに。  なかよくなれてるって、おもったのに。 「言いふらしたりなんか、しないよ。ぜったいしないよ」  だけど、紅葉は久美から目を逸らして、「そう、なら、いいんだけど」と答えた。そして、握りつぶしたアルミ缶を、さらにぎゅうっと力を入れて握った。  紅葉の手が、震えている。顔はつらそうに歪んで、唇がわなわなとしているように、久美には見えた。うつむいているせいで丸まった背中も、怒っているみたいに見えた。 「いや、だったんだね。私と一緒にいるの」  紅葉は久美の問いには、答えない。 「私、信じてもらえてなかった、ん、だよね」  やっぱり紅葉は、答えない。 「私、こわかった?」  それなのに、その質問だけには、紅葉ははっと表情を変えた。目を見開いて、口を小さく開いて、 「こわ、い?」  紅葉は、久美の言葉を繰り返す。そして、なんどかその言葉をぼそぼそと繰り返して、ためらいがちに頷き、 「こわいよ」 そう、答えた。こわかった、じゃなくて、こわいよ、と。だから久美ははっと、一瞬表情を失って、それでも次第に胸の奥の方からじわじわと冷たい熱を持った液体みたいなものがあふれてきて、顔が歪みそうになる。 「ごめんね」  それでも涙だけはぜったい流すもんか、と、できるだけ、できるだけ感情を消して、紅葉にそう言った。それでも鼻の奥の方が痛くなって、顔を伏せる。 「誰にも、言わないから。ごめんね。いやだったよね」  久美はわざと明るい口調でそう言って、でもどうしても声が湿り気を帯びてしまうから、よけい悲しくなる。  そうだ、いやに決まっているじゃないか。だっていっつも教室で一人でいるんだ。誰かと仲よくするのを嫌がっているんだ。あの時のプールサイドで、私はこっぴどく拒絶されたじゃないか。保健室でも、冷たい目を向けられてたじゃないか。トイレでも、私はひどいことを言って、それに、ずっとこの子をみんなでいじめてて、それで、どうして今近さんが私なんかと仲良くできる理由があるっていうんだろう。なにに私は思いあがっていたんだろう。私は、敵なんだ。今近さんにとっての、敵。仲良くできるわけ、なかったのに。  もう、だめだ。  久美はタオルで目の周りの汗を拭って、立ち上がった。ぐいとりんごジュースを飲み干して、スチール缶を握りつぶそうとしたけどできなくて、そのまま、持ってきたビニール袋に放り込む。 「缶、片づけとくから」  早口でそう言って、紅葉の返事も待たずにつぶれた缶をひったくって、ビニール袋に入れた。そして、その袋をカバンに乱暴に突っ込んで、ファスナーを閉める。  ちりん、と、小さな鈴のストラップがゆれた。 「誰にも、言わないから」  久美は紅葉に背を向けて、足を一歩踏み出す。普通に、普通に。そう思っていつも通りのペースで歩こうとするけど、次第に足は速く動いていく。そうしないと、ぽろぽろと何かがこぼれていきそうだったから、バランスを取るみたいに早歩きになって行って、ついには神社の砂利を蹴って走り出していた。  夏のことなんて、どうでもよかった。日差しも、照り返しも、木々も、セミも、風も。全部がどうでもよくなって、久美は走っていた。  久美は鳥居をくぐって、階段をたたっと駆け下っていく。落ち葉を踏んだかもしれない、ムカデを踏んだかもしれない。蛇がいたかもしれない。だけど、もうそんなことどうだってよかったのだ。ただ、あの神社から、あのからっぽの空気から逃げたかった。  ただ、それだけ。  じわじわ、じーじー。  それでも、セミの鳴き声が、やかましくなった。  夏は、暑さを増していった。 「……わるいひとなら、らくだったのに」  山の頂上の神社。その、色あせたベンチ。夏に取り残された少女は小さくつぶやくと、木漏れ日にまぶしそうに眼を細めて、そう呟いた。 「くのみや、くみ」  ポケットから黄緑色の箱を取り出して、一本、引き出した。そして緑色の百円ライターを何回かカチカチやって、火をつける。  すぅっと煙を吸って、ぷぅっと吐き出した。そして、左手でごしごしと目をこする。 「だめ」  ちょっとだけ湿り気のある、微かに震える声で少女はそう言って、うつむいた。 「もう、だめ、だなあ」  そして、木陰の中には、セミの鳴き声に交じって、微かな嗚咽が響き始めた。   もう七月が、終わろうとしていた。日差しが苛烈になっていって、セミの声が大きくなっていって、木々の色が濃くなって、暑く、なっていって。
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