アンチサイクロン

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☼2016年七月二十六日  その朝、久野宮久美は目を覚ますと、クラスメイトの田中加奈と交換していたミサンガがぷっつりと切れていることに気が付いた。この頃学校の女の子たちの間で流行っている、友達のあかし。仲のいい子同士でおんなじ物を身に着ける。  つまり、今、わたしと加奈の友達関係は切れたってこと?  ただの紐切れになってしまったミサンガを摘み上げて、久美は首をかしげる。だけどまあ、夏休みが終わったらまた加奈と一緒にミサンガを交換し合えばいいだけだ、と、久美は切れてしまったそれを机の上に放って、小さくあくびをした。  午前六時。もうお日様は町を照らしていて、久美の部屋もそろそろ暑くなってきている。昨日の夜はずいぶんと涼しかったからエアコンなしでも寝られたけど、今はじんわりと汗をかいてしまうくらいだ。 「まだ、寝ててもいいんだけど」  何せ夏休みだ。久美たちを閉じ込める中学校という檻は、今はまったくの力を失っている。だから、もし望むんだったらいつまでだって寝ていられる。だらだらしていられる。  だけど、久美は惰眠を貪る系女子ではない。できるだけ長く起きて、その分遊んだり、ぼーっとしたりしていたい。久美はどっちかっていうと眠るのは苦手だ。だって、眠っている間は自分が自分だっていう事がわからない。目を覚ました時、もしかしたら眠る前の自分と違う自分になっているかもしれないと思うと、あるいは、眠っている間、自分じゃない自分が起きているんじゃないかと想像すると、久美はちょっと怖くなる。  だから、ぜったいにじぶんがじぶんだとわかる、目を覚ましている時間が好き。  安心できる。  久美は布団から這い出して、居間に向かう。台所からはトントン、と何かを切る音と、味噌汁のにおいがしてきた。久美のお母さんはいつも五時半に起きて、朝食の準備をしている。久美は朝起きてその様子を見るたび、ああ、私も大人になったら、そうなるのかな、と、何年か先の自分の姿を想像する。そして、すこしわくわくした。 「おはよう」  台所のお母さんに向かって、久美はそう声をかけた。お母さんは包丁を持ったまま振り返って、「あら、おはよう」と、久美に微笑む。  山姥みたいで怖いから、包丁は降ろしてほしいんだけど。  そんなことは口に出さないで、久美も笑って、居間に行こうとする。だけどそんな久美の背中にお母さんは「あ、久美、ちょっと」と声をかけた。 「もうご飯できるから、これ。机拭いておいて」  そう言って、台ふきを放り投げて久美によこす。久美は「うげ」と小さく反発の声を出して、だけどお母さんにジロっとやさしくにらまれたから、しぶしぶそれをもって居間に向かった。 「おう、おはよ」  居間では、久美のお父さんが窓を開けてタバコを吸っていた。副流煙が入らないようにと窓から少し身を乗り出しているけど、煙の臭いはしっかりと居間に漂っている。でも、それももう慣れっこだし、なんなら久美はその臭いがわりと好きだから別に文句は言わない。 「おはよ」  居間のちゃぶ台を台ふきで拭く。そしてついでに、テレビのスイッチを入れた。 『本日は全国的に晴天で、各地で三十七度を超えるでしょう。水分をしっかりとる、帽子をかぶるなど、熱中症対策を徹底しましょう……』 「暑いなあ」  タバコを吸い終わった久美のお父さんがからからと窓を閉めて、そうつぶやいた。久美のお父さんはもうすでに着替えているけど、この頃はクールビズというやつで、涼しそうな服装だ。久美は「ほんとだねえ」と返事して、窓の外を見る。  窓の外から、もこもことした入道雲が見える。空は絵の具の原色とおんなじくらいに深い青で、まだ低い太陽の光も、白く輝いている。そしてアブラゼミの鳴き声が、町中から聞こえてきた。  久美は、夏が好きだった。  べつに久美は、夏休みがあるから夏が好きなわけではない。夏の青い空が、大きな入道雲が、突き刺すような日差しが、焼けた砂の匂いが、木々のざわめきが、好きなのだ。  今日も、あの神社に行こっと。  久美はふふっと笑って、台ふきを台所に戻しに行く。 「あ、久美、ご飯できたから、運んで」  台所に入ると、久美のお母さんがそういった。久美は「はーい」と言って台ふきをお母さんに渡して、お盆に味噌汁とお箸をのせて居間に運んでいく。お母さんは炊飯器からご飯をよそい始めた。 「お父さん、ご飯。はこんで」  テレビを見ていたお父さんに向かって、久美はそう声をかけた。お父さんは「ん、ああ」と返事して、台所へのそのそと歩いていく。久美はちゃぶ台に味噌汁と箸を並べて、もう一度窓の外を見てみた。  ああ、夏だ。  いちばん、暑い季節だ。  いちばん、にぎやかな季節だ。  それで、久美はカレンダーを見る。今日は七月二十六日。  夏はまだ、始まったばかりだ。
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