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ながい、ながぁい階段をのぼり切って、開けた場所に出る。目的の神社に到着したのだ。この神社は山の頂上付近を切り開いて建てられているから、町を見下ろすことができる。
「ふう」
階段をのぼってすぐの場所にある鳥居をくぐり、まっすぐと拝殿まで伸びる二十メートルほどの石畳を歩く。石畳の両脇は薄汚れた砂利が敷き詰められていて、ちょっとした広場のようになっている。そして、広場の西側の端には、ほとんど物置みたいな社務所が、東側の端には、手水所がある。久美は石畳を逸れて手水所で手を洗い、ハンカチで手を拭きながら拝殿に向かう。久美は特にお願いしたいこともないし、夏なのにわざわざ神様に出張ってもらうのも申し訳ないと思ったから、賽銭は入れないで二礼二拍手一礼。
「よし」
顔を上げて踵を返すと、石畳を引き返すんじゃなくて、砂利を踏みしめながら社務所の方に向かって行った。
目的は、社務所の裏のベンチ。そこは眼前が大きく開けていて、標高が高くはないとはいえ、大百区の町並みを広く見渡せるようになっているのだ。そして、ベンチの横には一本の大きな木が生えており、木陰の中でゆったりとすることができる。だから久美は毎日、この場所に足を運んでいるのだ。
社務所の横を通り抜けて、裏に出る。すると、目の前には夏の空と街と、久美が予想だにしていなかった光景が待ち構えていた。
「あっ」
驚きは、三つ。
一つめは、そのベンチには珍しく先客がいたこと。
二つめは、その先客が久美と同じ、大百中学校一年二組の今近紅葉だったこと。
三つめは、その今近紅葉がタバコを吸っていたこと。
久美は、なにか懐かしいものを見たような気がした。だけどすぐに、その懐かしさっていうのは今近紅葉の私服姿が醸し出しているのだと納得した。よれよれの男物のTシャツに、色あせたジーンズ。そして、ボロボロになったスニーカー。小学校の頃の今近紅葉はずっとそんな恰好をしていたけど、中学生になれば女子はみんなださくて地味なセーラー服に身を包む。ここ半年くらい今近紅葉の顔はあのセーラー服とセットだったものだから、久美は久々に見た紅葉の私服姿に懐かしさを覚えたのだ。
今近紅葉はベンチに腰を落ち着けて、左手を色あせたジーンズのポケットに突っ込んだまま、目の前に開けた景色をぼんやりと眺めているようだ。木漏れ日に撫でられて、白い頬が、うつろな瞳が、どこかきらめいているように見えた。緩やかに風が吹いて、雑に切られたショートカットの髪の毛が微かに揺れる。右手の人差し指と中指で挟んだタバコに口をつけて、軽く吸って、吐き出す。まだ中学生だっていうのに、やけに様になっていた。
久美は、一歩後ずさった。しかしその時、カバンにつけた小さな鈴のストラップが、ちりん、と鳴ってしまった。
「ん」
今近紅葉はその音に気が付いたのだろう、ふと首を動かして、久美の姿を認めた。そして、一瞬目を見開いて、でもすぐにいやそうに眉をひそめ、地面にタバコをぐりぐりと押し付けて火を消した。それで、立ち上がってベンチのそばにあった灰皿に吸殻を放り込んで、使い古したスニーカーで地面をざりざりと踏みしめながら、久美の方に歩いてくる。
な、なんかされる……⁉
久美は一瞬身構えたけど、今近紅葉はそのまま久美の横を通り抜けて、広場の方に向かって行った。その一瞬、ふわりと彼女から漂ってきたタバコの匂いは、嗅ぎなれたものだった。
もしかして、これ、お父さんのと同じ……?
久美は振り返って紅葉に声をかけようとしたけど、彼女はもう社務所の陰に隠れてしまっていた。
真夏のベンチに一人、久美は取り残された形になる。
じわじわ、じじ。
山の中に立つ神社なものだから、セミの声が四方八方から聞こえてくる。
「いまちか、もみじ」
久美は彼女の名前をつぶやく。
今近紅葉。少年じみた髪型の、不愛想なクラスメイト。
クラスでは、誰とも話そうとしない。誰とも遊ぼうとしない。周りにはいっつも近づくなオーラを放出し続けていて、試しに話しかけてみようものなら、じろりと鋭い視線でにらみつけられる。だから誰も近づこうとしない。そんな、女の子。
久美が聞くところによると、小学四年生で引っ越してきてからずっとそうらしい。必要がないときは一言もしゃべらないし、目も合わせようとしない。
『なんか、あいつ、かんじわるいよね』
いつだったか、加奈がそんなことを言った。そしてそこは中学生のサガというやつで、皆それに同調していた。だから久美も、胸の奥がいがいがするような感覚を覚えながらも、一緒に。
そんなことだから、女子は静かに、今近紅葉にちょっかいを出していた。紅葉の机にちょっと落書きをしたり、上履きを隠したり、体操服を隠したり。
誰が中心に、っていうわけでは無い。いうなればクラスの女子の空気を中心に。久美もその空気の住人で、その様子を見て、親しい女子と眉を顰めあって、わざとらしく笑いあった。だけどそのたびに、久美は胸の奥がどうしても痛くなってしまって、それ以来、その空気の匂いがするたびに、ちょっと距離を置くようになった。物理的にじゃなくて、シンリテキに。
ただの自己満足だなんてことは、よくわかってたけど。
だけど、それもすぐに終わった。クラスの女子は、今近紅葉が「やばいやつ」だと認めたのだ。なぜなら紅葉は、机に落書きされれば問答無用で隣の机と自分の机を入れ替えるし、上履きを隠されたら隣の下駄箱の靴を勝手に使う。体操服が隠されたらためらいなく授業をさぼるし、机に花瓶が置かれていた時はクラスで一番病弱な子の机に花瓶を移動させた。それで、一回女子の誰だったかが紅葉になにかを言ったら、紅葉は何も言わずその子の腹にパンチを入れて早退していったし、美術の時間に絵の具の入った水をわざと紅葉にこぼしたら、近くにいた男子がみぞおちを思いっきり蹴られたのだ。
だから、女子たちはちょっかいをやめた。そんなことをやっても何も楽しくないし、何なら自分がひどい目に合うかもしれないのだ。それに、最終手段の「皆で無視」も使えなかった。だって紅葉の方から皆を無視しているから。
今近紅葉。
そんな、クラスの異物。
明日も、いるのかな。
いたらどうしよう。
久美はちょっと明日のことを考えて、でも首を振る。
きっともう、いないはず。
それで、久美はさっきまで紅葉が座っていたベンチに座る。風はなかったけど、そばの木が作り出す陰のおかげで、暑さはいくぶんかましだった。
目の前には、大百区の景色が広がる。名古屋の隅の、住宅街。大して街中ってわけでは無い、どっちかっていうと田舎な町。山や森が多くて、畑もある。
「……なつ、だなあ」
高く、たかぁく入道雲が空にそびえたっている。風はなくて、木陰の中とは言っても、湿り気を帯びた暑さが肌にまとわりついてくる。
だけど久美は、すこしだけ、胸の奥の方が、凍り付いたみたいに痛く感じた。
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