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☆2016年七月十五日
それは、夏休みを目前に控えたある日のことだった。その日は二限目から三限目にかけてプールの授業があり、市立大百中学校の片隅では生徒たちの声が響いていた。
そんな、夏の片隅。プールサイドのベンチで、久美はちょっと緊張しながら座っていた。久美はその日、せっかくプールの授業があるっていうのに水着を忘れてきてしまったのだ。だから仕方なく体操着で見学をしている。べつに、見て学ぶべきものなんてあんまりない。しいて言うなら、ここから観察してみると男子がプールサイドの反対側にちらちらと視線を向ける様子が思いのほか面白いってことだけ。
暑い日だった。気温は三十七度程度。空は雲一つなく澄み渡って、突き刺すような日差しがさんさんと降り注いでいた。
灼けたプールサイドに、体育の先生が水を撒いていく。プールの水がパシャパシャとはじけて、久美の近くまで飛んでくる。泳いでいるクラスメイトが手を振ってきたから、久美も手を振り返した。ぷんと漂う、塩素の匂い。
そんな、暑い、暑い夏の日。なのに、久美は自分の右側でまるで冷気のようなものを感じていた。
今近紅葉も、久美の隣に座って見学をしていたのだ。
「……」
今日もまた、見学なんだ。
久美はベンチの上で膝を抱えてぼんやりとした目をしている今近紅葉をちらちら見ながら、そんな事をおもった。もしかしたら、何か話せるかもしれない、とも。
今近紅葉は、今まで一度もプールの授業に参加したことはない。いつもこのベンチに座って、ぼんやりとこの光景を眺めている。クラスの皆はなんで彼女がプールに入らないのか、勝手な想像を言い合っていた。曰く、
泳げないのがはずかしいから。
塩素で肌が荒れるから。
昔おぼれたことがあって、水が怖いから。
裸を見られたくないと思っているから。
水アレルギーだから。
万年生理だから。
そのどれが本当なのかは、だけど、久美にはわからない。もしかしたら全部間違っているかもしれない。少なくとも、最後の二つは違うだろう、と久美は思う。
「……さっきから」
久美がちらちらと今近紅葉を見ていたら、不意に彼女がそう声を上げた。
「ボクの事じろじろとさ、なんなの」
ひどく不快感を露わにした声だった。
「え、と」
もしかしたら、今近紅葉の方から話しかけてきたのは、これが初めてだったのかもしれない。だから久美は戸惑って、目を白黒させた。
ボク、って言った?
「なんでもないなら、それ、うざいから、やめて」
取り付く島もないその言葉に、久美はうつむいて「ごめん」と謝る。それで、もう一回今近紅葉の顔をうかがおうとして、でもやめた。もう一回ちらりとでも見ようものなら、今度は殴られるかもしれない。六月には久美のグループの一人が紅葉にみぞおちを思いっきり殴られているのだ。
だからその授業の間、久美は隣に「やばいやつ」がいることを全身で感じながら、ふつうの汗なんだか冷や汗なんだかわからない汗を流して、ずっと真正面を向いて見学を続けていた。
それでも、やっぱり心のどこかで今近紅葉に話しかけたいと思っていたのは、彼女に対してなにか、清算すべきことがあるような気がしていたから。そして、以前、あるとき今近紅葉の見せた涙の訳を聞きたかったから。
だけど結局、久美は何も言えなかった。
昼休みがおわって、五限目。
久美は七月の席替えで運よく窓側の一番後ろの席を勝ち取ったから、教室に座るクラスメイトのほとんどの人の後頭部がはっきりと見えていた。
もちろん、今近紅葉の頭も。
今近紅葉は男の子みたいな短い髪の毛をしている。さすがに刈り上げてはいないけど、クラスの男子で一番髪が長くて一番女々しい斎藤君と並べれば、どっちが男の子でどっちが女の子かわからないくらいだ。
たぶん、伸ばせばサラサラできれいな髪の毛なのに。
授業中、今近紅葉の頭を見るたびに久美はそう思う。今近紅葉は整った顔立ちをしているし、背も高い方だ。きっと髪を伸ばしておしゃれすれば、すごく似合うだろう。
それだっていうのに、彼女は千円カットで切ったみたいに雑なショートカットだし、小学校の頃にはいつもよれよれのTシャツとジーンズだった。
それにさっき、「ボク」って言った?
考えてみれば、久美は今まで今近紅葉の一人称を聞いたことがなかった。彼女はほとんどしゃべらないのだから、当たり前といえば当たり前なんだけど。
なぞだ……。
久美は今近紅葉のことを知りたいと思う。なぞの少女のことを知りたい。いろいろ話して、いろいろ聞きたい。それは、でも、クラスの皆も似たようなものだったのかもしれない。だけど、なぞの少女は取り合おうとしないで、自分のなぞを明かさない。だから、この前はあの空気ができてしまった。
『あいつ、かんじわるいよね』
久美はあの空気を思い出して、また、胸の奥がチクリと傷んだ。
そうして、彼女のなぞは明かされないまま。
そのまま、夏休みに突入していった。
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