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☼2016年七月二十七日
「あ」
例の神社の、例のベンチをみて、久美は小さく声を上げた。
なぞの少女がそこにいた。木漏れ日に頬をなでられながら、人差し指と中指で挟んだタバコを吸っている。その光景が昨日のあの時とまるっきり重なり合ってしまったものだから、久美は自分が同じ日の中にいるのではないかと一瞬錯覚してしまった。
今日もいた。
タバコを吸いながら、今日もいた。
そのまま片手を上げて、「やあ今近さん、今日も奇遇だねえ」なんてのんきに話しかけるような勇気をあいにくと持ち合わせていなかったものだから、久美はさっと物影に隠れる。そしてすこしだけ顔を出して、今近紅葉の様子をうかがった。彼女は、まだ久美のことに気が付いていない。ぼんやりと目の前の景色を眺めて、憂鬱そうな表情で紫煙を吐き出している。
きれいだなあ。
久美は日の光に照らされながらさあっと流れていく一筋の煙にほうと息をついて、そんな事を思う。
でも、どうしよう。
久美はツチノコでも見つけたみたいに、物影であたふたする。クラスの異物、なぞの少女。誰も今近紅葉の素性を知らないのだ。なら、久美にとってツチノコと今近紅葉は、どこか似たようなものだ。
きっとこのままのこのこと出て行けば、また昨日みたいに逃げられちゃうとおもう。
だけど、こうやってずっと隠れてても、どうしようもない。
久美はそのまま二分間くらいじっと考えていたが、意を決したように立ち上がった。ツチノコハンターにでもなった気分だ。眺めているだけでは仕方がない。網を持って、とびかからなければ。久美にとっての網と言うのは、おしゃべりのことだったのだろう。
今日は、なんかしゃべってやる。
それで腹パンされても、構うもんか。
……でも、腹パンはちょっといやかなぁ。
だけど、やるしかない。
そうして、久美は何を言おうか頭の中でシミュレートしながら紅葉の座るベンチにずんずんと歩いていく。おはよう、いい天気だね。今日もファッション、きまってるね。タバコ、ハードボイルドなかんじじゃん。いい景色だよねえ。暑いね、今日。宿題どう。だけどそのどれもが致命的に外れている気がする。どの言葉も、どうしようもなく大きな穴が開いてしまった虫取り網のようなものだった。
言うべき言葉は定まらない。それなのに、ぐんぐんと今近紅葉との距離は縮まってくる。そして、ついに残り五メートルくらいになったあたりで、紅葉は久美の足音に気が付いて、ふっと振り返った。
「……ん」
そして、これまた昨日のあの瞬間をそのまんま写し取ったようないやそうな表情を浮かべて、たばこを地面でもみ消そうとする。だから久美は、何を言うべきか、なんていう思考は全部捨て去って、とにかくはやく紅葉の隣に駆けだす。
どすん。
紅葉がタバコの火をもみ消してしまう、そのほんの刹那ほど前に久美はベンチに座った。両脚をきっちりそろえて、両手を膝の上に乗せて、背筋をピンと伸ばして、口を真一文字にとじて、真正面を見据えながら。別に、久美は普段礼儀や所作を細かく気にするような質ではない。それでもこんなにぴしっと座ってしまったのは、ひとえになぞの少女のせいだろう。
ちりん、と、カバンにつけた鈴のストラップが揺れた。
久美が横を向けないのは、しっかりと紅葉の顔を見るのが、やっぱりすこし怖いから。
紅葉はそんな久美に驚いたように目を見開いて、たばこを消そうとかがみこんだ姿勢のまま、ぴたっと動きをとめる。
じわじわ、じじ。
ぽとり、と、タバコの灰が地面に落ちた。
そのまま、ベンチ周りの夏の空気が凍り付いて、十秒。
「……え、っと」
紅葉が珍しく困惑の声を上げたところで、
「く、久野宮久美!」
久美は素っ頓狂な声でそう言った。
「……は?」
「私、久野宮久美、クラスメイトの!」
そのまま、また十秒。紅葉はゆっくりと屈んだ姿勢をもとに戻して、
「しってるけど」
消しかけていたタバコをまたすうっと吸って、紫煙を吐き出した。
そして、その次に言葉はない。だから久美は、
「あなたは、今近紅葉」
なんて、当たり前すぎることを口に出す。だけどその言葉に、紅葉はぷっとふきだした。久美はおそるおそる首を動かして、隣に座る紅葉の顔をうかがう。
紅葉は正面を向いて、くつくつと笑っていた。
「大正解」
そうとだけ言って、紅葉はまたゆっくりとタバコを吸う。そして、ぷうっと煙を吐き出す。風下にいた久美は、ちょっとせき込んだ。
「……じゃ」
こほこほと咳をする久美を横目に見ながら、紅葉は地面でぐりぐりとタバコの火を消す。そして立って灰皿に吸殻を入れると、すたすたと歩きだした。
「あ!」
久美はそれをひきとめようと手を伸ばしたけど、腕をつかむことはできなかった。つかんで、振り払われたらと考えると、できなかった。だから久美は、声を出す。
「明日!」
紅葉は、三歩歩いて足を止める。
「明日も、来る?」
紅葉はくるりと振り返った。そして冷たい目で、
「さあ?」
「来て!」
「……」
紅葉は返事をせずに、歩き出した。久美はその後ろ姿をじいっと眺めて、でも、彼女の姿が見えなくなってしまうと、ほう、と息をついた。そして緊張の糸が途切れたみたいに、ぐでんと脱力する。
「こ、わかったあ」
心臓がばくばく鳴っているのがわかる。どっと汗が噴き出てくるけど、きっと夏のせいではないだろう。
タオルを取り出して、汗を拭く。水筒に入った、キンキンに冷えたお茶をぐいぐいと飲む。
だけど、話せた。
ちゃんと返事してもらえた。
腹パンされなかった……!
そのことに久美はすこしだけうれしくなって、頬が緩んだ。
明日も、いるのかな。
いるといいな。
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