アンチサイクロン

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☆2016年六月十日  あれは、そろそろ日差しがきつくなってきて、学校の先生たちも熱中症に対する注意を叫び始めた、夏の始まりのような日だった。その日久美は皮膚をじりじりと刺すような暑さについつい興奮してしまい、昼休みに水も飲まずに日光に当たってぼんやりしていたものだから、午後には体調を崩して保健室にいた。 養護教諭の先生には「ちゃんと水飲まないとだめでしょう」と言われた。それで久美は、ベッドに横たわりながら「だっていい天気だったから」と答えたことは覚えている。その後は渡された氷袋の冷たさを楽しみながら、いつの間にか眠りに落ちていた。 保健室の周りには授業をやっている教室はなくて、普段久美が感じている喧騒からは考えられないくらい静かだった。だから、久美は五限目の授業が終わったことを告げるチャイムが鳴るまで、ぐっすりと眠っていた。  きぃん、こぉん、かぁん、こぉん。  妙に間延びした音で久美は目を開けて、「しまった」と思った。だいじな昼間に、眠ってしまった。時間を無駄にしてしまった。その後悔で、胸がすこしだけ、きゅうっと痛んだ。せっかく授業をさぼって平日の昼間に何もせずにぼうっとしていられるはずだったというのに。 「……先生、いないのかな」  保健室の中は、扇風機の回る音しか聞こえなかった。久美は自分の寝ているベッドを囲うカーテンを少しだけ開けて、部屋の様子をうかがう。でも、やっぱり誰もいない。電気は消されていて薄暗く、休み時間の喧騒がどこか遠くに聞こえている。 なんとなく、せかいのどこかにじぶんひとりだけとりのこされたきぶん。 けっこう、ゆったりしたくうき。  ……教室、もどる?  そう自分に聞いてみて、でも、 「……」  …… 久美はじっと動かなくなる。 一種の瞑想のようなものなのかもしれない、落ち着いた場所、落ち着いたこころ、それでいて、はっきりした意識。それらがそろったとき、久美はじっと動きを止めて、何かを考えていて、それでいて何も考えていない状態になる。音も、色も、形も、においも、触感も、ぜんぶの感覚がそのまま自分の中を通り抜けていく。  それがなんというか、ここちいい。  そうして、久美がぼうっとし始めて、大体、七分。扉の開く音が保健室に鳴り響いて、久美ははっと我に返った。  先生が、戻ってきたのかな。  とっさに、久美はベッドに寝っ転がって布団にくるまる。何となく、体を起こしていたら怒られるかもしれないと思ったのだ。  そうして、しばらく。  だけど、聞こえてきたのは養護の先生の声じゃなくて、誰かのすすり泣く音だった。  隣の、ベッドからだ。  久美はおそるおそる、カーテンを小さく開いてみた。すると、こちらのベッドに背を向けて、一人の生徒が小刻みに肩を震わせていた。  男子みたいな、雑なショートカット。だけど着ているのはセーラー服。久美は、その後ろ姿に見覚えがあった。  今近、紅葉。  ギシッ。  その時、久美のベッドがきしむ音が響いた。久美はあっと思って身を隠そうとしたけど、ぱっと振り返った彼女と目が合ってしまった。 「え……」  今近紅葉はそう、小さく声を上げた。驚いたような顔をして。それでも、次の瞬間にはその顔はみるみる怒ったようなそれになっていって、ついにはばっと立ち上がって、保健室の外に出て行ってしまった。  今近紅葉だった。  取り残された久美はしばらくポカンとして、でも、自分ももう保健室からは出ようと思った。紅葉を追おうとしていたかと言われたら、彼女はそうだと答えたかもしれないし、そうじゃないと答えたかもしれない。とりあえず、外に。  久美はベッドからおりて、上履きを履いて、とてとてと扉に向かい、がらりと開く。そして左右を見て、でも紅葉の姿は捉えられず、久美はちょっと落胆した。 「あ、久美、もう大丈夫?」  不意に、そう声をかけられた。 見てみると、加奈と唯香がふたりしてこちらにむかって歩いてきていたのだ。二人は久美を見て少し心配そうな顔をした。 「うん、もう、だいじょうぶ」  久美はそう言って二人に笑いかけた。でも、さっきの紅葉が気になって、 「あの、さ。今近さん、なにかあったの?」 「今近?」  加奈が、顔をしかめて不機嫌そうな声を出した。そして唯香とちらっと目配せして、 「今近ね。あいつ、さっき柊のお腹殴って、それで逃げてったの。ひどくない?」 「ええ! なんで」  久美はびっくりして、素っ頓狂な声を出した。今近紅葉の事は前々からおかしな子だと思っていたけど、まさかそんなことをするとは思っていなかったのだ。 「さあ? 柊がなんか言ったみたいだけど、わかんない。でもひどいよね」  加奈と唯香はうんうんと頷きあって、紅葉の悪口を言い始める。久美はあの空気の匂いがし始めたから、心の扉をとじた。それで、自己満足だけど、少しは胸の痛みが和らぐような気もする。 でも、なんで紅葉はさっき泣いていたんだろう。  泣くほどのことを、柊は言ったのかな。  あの今近紅葉が?  ……どんなこと?  きぃん、こぉん、かぁん、こぉん。  そのときチャイムが鳴り響いた。 「あ、やば」  三人のうちの誰かがそう言って、久美たちは教室に向かって走り出す。六限は国語の授業だ。遅れてしまったらまた東陵先生にがみがみ言われるに決まっているのだ。しかも東陵先生は久美たち一年二組の担任なものだから質が悪い。  じわ、じわ。  廊下を駆けているとき、久美は微かにセミの鳴き声を聞いた気がした。夏の音を聞いた気がした。  夏の始まりのような日の事だった。
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