アンチサイクロン

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階段をのぼり切った。そのころにはもう久美は汗もだらだらで、近所のゴールデンレトリバーみたいに口をだらしなく開けていた。さすがに、舌を出してはいなかったけど。  久美はぐびぐびと水を飲んで、タオルで汗を拭って、お参りもせずに例のベンチに駆け足で向かう。じゃりじゃりと足音を立てて、昨日みたいに気が付かれないように慎重に、なんてこともなく。  そして、視界にベンチを捉えた。町を見下ろせる、まるで展望台みたいな場所。大きな木が一本、でん、とそびえていて、夏の太陽のせいでくっきりとした影を作り出している。そして、その木の下に、色あせた青のベンチ。  猫だ。  久美はそのベンチを見て、ふとそう思った。  そこには、木漏れ日に優しく包まれながら静かに居眠りしている、少年みたいな少女がいたのだ。 「……ねてる」  昨日みたいにタバコを吸っては、いなかった。微かに肩を上下させながら、まるで夏の風景の一部みたいになっている。容易に崩してはいけない、壊してはいけない、そんな穏やかで、緩やかな風景の一部みたいに。  久美は、だから、足音を立てないようにそっと近づき、ベンチを揺らさないようにそっと腰を下ろす。そして、そんな久美に気が付かないままにすぅすぅと寝息を立てている少女の顔をじっと観察してみた。  すっと細い顔の輪郭。それでも柔らかそうなほっぺたは、暑さのせいだろうか、すこし紅い。静かに寝息を立てている唇は薄くて、鼻先はつんとしている。瞼はとじられているけど、そのせいでお人形さんみたいに長くてつややかな黒色のまつげがよく見える。眉毛は、でも、ほとんど手入れしていないんだろう、すこし太めだった。  よく見ると、綺麗な顔だなあ。  なんて、久美は紅葉の顔をまじまじと眺めながら思った。普段は遠目に見るか、近くにいてもじっと見つめることなんできないから、こうして紅葉の顔を間近で眺めるのは新鮮だったのだ。  恰好こそ、男子っぽい。髪の毛は短いし、よれよれのTシャツにジーンズだし。 だけどしっかりとおしゃれすれば、きっとかわいくなるはずだ。 たぶん、クラスではだれにも負けないくらい。  じわじわと、セミの鳴き声が響いている。突然、夏の熱い風が吹いて、ベンチのそばの木が大きく揺れた。そして、ざあっと森全体が鳴動するように、葉がこすれあう音が響いた。 「んう……」  すぅっと、紅葉が眼をあけた。そして、久美が目の前で自分をまじまじと見つめているのに気が付いて、ぎょっとしたようにのけぞった。  久美は、だけど、一つ瞬きをしただけで、紅葉をじっと眺め続ける。だから紅葉は顔をしかめて、「なに?」と非難めいた声を出した。 「あ、ううん。おはよう」  久美は微笑んで、そう返した。そんな久美に、紅葉は不機嫌そうな顔のまま、ため息を一つ吐いて、「人の顔が間近にあると、心臓に悪いんだけど」と言って、久美から少し距離を取る。だから久美はすこし残念になって、 「えっと、今近さん、かわいいな、って思って。ごめん、びっくりした?」 「……うん」  そうして、目を伏せて、「かわいい、ね」と久美の言った言葉を、吐き捨てるように繰り返した。そして、顔を上げて、むつかしそうな顔をして、久美をじっとにらみつける。 「で、用は?」 「用?」  久美はきょとんとして聞き返す。すると、紅葉は不愉快そうに、 「……ボクに用があったから呼んだんだよね、今日、ここに」 「あ、え、っと、そうだね」  久美はどもりながらそう答える。そして、ちょっと焦った。確かに昨日「来て!」なんていったけど、それはなんというか、別に特段用があって、というわけでは無いのだ。ただ何となく、今日も来て一緒に喋れたら、もしかしたらなぞの少女のことが少しは分かるかもしれない、と言った程度の、そんな、ぼんやりとした理由。  だけど、そんな事を目の前の少女に行ったらどんな反応をされるだろうか。もしかしたら不機嫌になって、帰ってしまうかもしれない。あるいは、怒って腹パンされるかもしれない。  でも、ほかに理由なんて、ないし。  だから久美は、うつむいて、小さな声で、 「お話が、したくて」  それだけ、久美はおそるおそる答える。そして、ちらっと隣の少女をうかがってみる。  どんな顔をしてるかな。  怒ってるかな。  しかし、紅葉は「ふうん」と頷いて、 「お話ね。いいよ。なに」  あっさりと、そう答えた。だから久美はびっくりして、顔を上げてきょとんとする。紅葉はそんな久美の顔にムッとして、「なに、その顔は」と言った。 「あ、ううん。なんでもなくて。えっと、で、お話。いや、夏休みとか、何してるんだろう、って思って」  案外すんなりと紅葉がお話をすることを了承してくれたから、久美はうれしくなって、弾んだ声でそう尋ねてみる。でも、紅葉はぼぅっと空を眺めて、 「こうしてる」  ……まあ、そうなんだけど。 「えっと、そういえば、いつもプールに入らないのって、なんで?」 「入りたくないから」  空のはるか高いところに、飛行機が飛んでいる。白く細い飛行機雲が、二人のながめる青い夏空を二つに切り裂いていく。 「あ、なんで自分のこと『ボク』っていうの?」 「……さあ」  太陽が高くなっているからだろう、じりじりと影が動いて、久美は日光の下に出た。一方、まだ紅葉は涼しげに薄暗い影の中にいる。 「そう言えば、今近さんってショートカットも似合うけど、ロングでもかわいいと思うよ。伸ばしたりしないの?」 「しない」  眼下に広がる大百区の町は、高く昇った太陽の光をきらきらと反射して、輝いていた。家々の屋根に蓄積された熱は、じりじりと陽炎となって揺らめいている。  ふっと、示し合わせたかのようにセミの鳴き声が止まった。それだから、あたりはしいん、と静まり返って、久美は自分たちだけが夏の景色に取り残されたような気がした。  つぅっと、久美の頬を伝った汗がぽたりと落ちる。久美は慌ててタオルで額を拭った。  じわじわと、また、セミの声が湧き上がるように響き始めた。久美は太陽の光が突き刺すように熱く感じたから、 「ちょっとそっちずれてもいい?」 「いいよ」  紅葉は座っている位置をずれる。そして、空いたスペースに久美が座った。これでしばらくは、木陰の中にいられる。だけど、このままでは紅葉とロクに会話ができない。久美は何かいい話題がないかと考えて、そう言えば今日はいろいろ持ってきていることに気が付いた。 「今近さん、お菓子、食べる?」 「お菓子?」 「うん。じゃがりことか」 「……たべる」  やった、すこしだけ、続いた。  久美はそんな事にもうれしくなって、急いでカバンを開けてじゃがりこの箱を取り出した。そして蓋を開けて、「はい」と言って紅葉に差し出すと、紅葉は「ありがと」と言って一本つまんで、カリカリとかじり始めた。久美も一本つまんでかじる。 「今近さんはさ」  この流れで、何か話せるかな、と、久美は小動物みたいにじゃがりこをかじっている紅葉に話しかけた。 「なんでここにいたの?」 「……『来て』って、言われたから」 「じゃなくて、昨日とか、一昨日とか。何か用があったのかな、って」  紅葉はもう一本じゃがりこをつまんだ。久美ももう一本。 「どこでも、良かったけど、人気のないところあるかなって思って。偶然階段見つけたから、登ってみて、良い感じだったから」 「人気のないところ?」  紅葉はこくりと頷いた。そして、ちらっと久美を見て、またじゃがりこを食べ始める。 「なんで?」  カリカリ。紅葉は返答しない。 「もしかして、言いたくない?」 「……ん」 「そっか。ごめん」  それで、久美は何となく口を開きにくくなって、黙り込む。紅葉も自分からは喋りだそうとしないから、二人の間には、じゃがりこをかじる音だけが響いていた。  そうして、五分くらい。二人はただ黙々とじゃがりこを食べて、箱の中は空になった。久美は水筒を取り出してぐいぐい飲むけど、紅葉はぼぅっと景色を眺めているだけだったから、すこし気になって、 「のど、乾かない?」 「ちょっと」 「水飲む?」  でも、紅葉は首を振る。そして立ち上がると、「すぐ戻るから」と言ってどこかに歩いて行った。久美も立ち上がって追いかけてみると、紅葉は手水の水を飲んでいた。あれって飲めるのかな、と不安になったけど、まあ死にはしないか、と思って、ベンチに戻った。  そして、紅葉が戻ってくるまでの少しの間、久美は町を見下ろして待つ。  大百区。名古屋市の東の方に位置する区で、お隣の日進市と隣り合っている。大きな会社や工場、あるいはオフィスといったものはあまりなくて、もっぱら住宅街と、畑と森。そんなわけで、久美の見下ろす景色は大体が一軒家の瓦屋根だったり、マンションの味気ないコンクリートの屋上、そして緑。あるいはずぅっと遠くを見れば、名古屋駅の高いビルがいくつか見えたりするけど、円筒形の二つのビルと、直方体の黒っぽいビル、それくらい。ぐりゅんとねじれた、あのへんな形のビルは、残念だけどここからは見えなかった。  ざり。  足音が聞こえたから、久美はそっちを見る。すると、紅葉がベンチに戻ってくるところだった。紅葉は久美の隣にすとん、と座ると、 「水が飲めるのも、ある」  と言った。 「何が?」 「ボクがこの神社に来る理由。夏だし」 「……なるほど?」  それで、また沈黙。十秒くらい。久美はそれで、口を開いた。 「図書館は?」 「何が?」 「水飲めるところ」 「ああ」 「あ、でも人がいるか。ごめん、だめだね」 「ううん。前まで行ってた。人気はあるけど、静かだし。涼しいし。でも」  紅葉は悲しげに笑った。 「ボクが読めそうな本は、全部読んじゃったから」  だけど久美はそんな紅葉の言葉にびっくりして、目を真ん丸に見開いた。 「へえ! すごい! 今近さん、そんなに本、読むんだ。小説とか?」 「ううん。図鑑とか、地図とか、辞書とか、歴史の本とか、科学の本とか。わからないのばっかりだけど。でも、わかるのはぜんぶ読んじゃったから」  なんだか、面白くなさそうなのばっかりだな、と、久美は思ってしまった。今紅葉が挙げたもののどれもが、なんていうか楽しみとして読むものじゃない気がしたのだ。 「小説とか、漫画とか、読まないんだ?」  久美がそう訊くと、紅葉は下を向いて、「うん」と答えた。 「物語は、ボクには毒になるかもだから」 「毒?」 「そう、毒」  致死性の毒。と、つぶやいて、紅葉は笑った。 「死んじゃうの?」 「死んじゃうよ」 「じゃあ、国語の時間は大変だね」 「うん。まあ、国語の時間は仮死状態だから、大丈夫」  国語の時間は、仮死状態。そんな変な物言いが、久美には、すこし可笑しかった。だから久美はへぇ、と小さく笑った。 「仮死状態なの?」 「そう。心が」  と、言って、紅葉は、はっとした表情になった。それでふっと表情を消すと、「あと、エアコンがちょっと強いから」と、言い訳みたいな仕方で言って、じっと町を見た。  葉っぱの間から落ちてくる日の光が紅葉の頬を照らし、その光が彼女の瞳にきらきらと映って、能面みたいな無表情が、だけど、綺麗に見える。薄暗い木陰の中でほんのりと汗をかいている、秋みたいな名前の少女。それだけど、久美は今近紅葉が、炎天下の、夏の子なんだな、と思った。 「今近さん、夏は好き?」 「冬より、好き」 「冬より?」 「うん。冬は、ほんとに死んじゃいそうになるから」 「……?」 「わすれて」  そして、二人は黙り込む。久美は、漫画もって来たけど、残念だったなあ、と思いながらぼんやりする。それで、でも、今はだいぶリラックスできてるな、と気が付いてうれしくなった。最初の方より会話が続いているし、今近紅葉の言葉のとげもなくなってきている。  だけど、 「お話は」  紅葉は、そう言った。 「お話は、それだけ?」 「あ、えっと」 「なら、ボクはもう行くね」  そう言って、紅葉は立ち上がる。久美は「まって」と言おうとしたけど、そうやって無理に引き留めたら今日が全部無駄になってしまう気がして、言葉を飲み込んだ。でも、また、とっさに、 「明日、も、来る?」  と訊いていた。  紅葉は無表情で久美の顔を見下ろすと、 「来て、って、いうの?」  その目がひどく冷たかったから、久美はごくりと唾をのんで、それで、恐る恐る口を開く。その時、紅葉もちょっと緊張した顔になっていたことに、久美は気が付かなかった。 「明日は、ジュースも、ついてきます」  その言葉に、紅葉は一瞬顔をさらにこわばらせて、でも、はあ、と息をついて、あきれたような表情をした。そして、 「わかった」  久美はその返事にぱあっと顔を輝かせて、「やったぁ」と声を出す。紅葉はそんな久美を見て、だけど、ちょっといらだたしげに、 「ほんとうに」  とつぶやく。 「え?」 「ほんとうに、それだけ? 話って」 「えっと、うん。あ、でも明日もおしゃべりしたいなって、思うけど」  じっと、紅葉は久美をにらんでいる。久美はなんでにらまれているのかわからずに、おろおろしながら首をかしげて、はにかんでみて、でも紅葉は何も言わないから、「え、っと」と戸惑ったようにきょろきょろして。それで、しばらくして、紅葉はそんな久美をにらみながら、 「……た」  と言った。 「た?」 「……なんでもない」 「た、って、なに?」 「なんでもないよ。じゃ」  紅葉は背を向けると、速足で去っていった。久美はその後ろ姿をあっけにとられながら見つめて、でも、明日はジュースを忘れないようにしよう、と決心した。 「あ」  そう言えば、今日、今近さん、タバコ吸ってなかったな。  なんでだろ。  久美はそのことに気が付いて、ちょっとだけ物寂しいような気がした。夏の空気と、太陽の日差しと、タバコの煙。それは、家の中だと、味わえないから。  明日は、吸うのかな。  じわじわ、じーじー。  ベンチを覆う影は、もうほとんどなくなっていた。久美は腕時計を見てみる。すると、もう十二時に近かった。だから久美は、お昼を食べるために家に帰ることにした。  明日は、ジュース。  保冷バッグに、入れてこよう。
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