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猫が死んだ。
午後6時、右耳に傷のある猫が死んだ。
アパートの窮屈な台所と棚の間の隅っこで、ひっそりと音も無く寿命で死んだ。
外からわずかに車のエンジンの音、カラス、雀の鳴き声が聞こえるが、空気が微動だにしない誰もいないこの空間はとても静かだ。
10分が経った。
死体の前にオレンジ色の陽射しが差し込んでいた。
日の当たった床からゆったりと、スローモーションで動く湯気の様に埃が浮き上がる。
オレンジの照明に照らされて、ゆらりゆらりと踊っている様だ。
ゆらりゆらり。
ゆらりゆらり。
バサバサと窓から風を切る翼の乾いた音が聞こえる。
カラスがベランダに止まり、ガラス越しにアパートを覗いた。
それと同時に、死体の前にあった陽射しがフッと消える。
カラスはそこから動こうとしない。しばらくアパートの中をキョロキョロと見渡した。
カラスは32インチのテレビをジッと見つめた。
ジッと見つめている。
次にカラスは陳腐な柄のラグの上に雑に置かれた猫の雑誌を見つめた。
そして次に天井にぶら下がっている埃の溜まった電球を見つめた。
ジーっと見つめた。
そしてカラスは死体のある台所を見つめた。
カラスは動かない。そこから動かなくなった。
外から会話をする女性の声が少し聞こえた。内容は聞こえはしないが、とても楽しそうに会話している。
次第に雀の鳴き声が聞こえなくなり、外からはカラスの鳴き声と、女性の断片的な喋り声だけが聞こえる。
時計の音が部屋中に響く。とても時間が経った。
周りの空気が少し冷たくなり、少しだけ暗くなった。
カラスが動く。大きな体を横に揺らして外側を向き、カアカアと鳴いた。
いつの間にか女性の会話は終わっていた。
7時。
ベランダに止まっていたカラスが飛んだ。
飛んだと同時にオレンジ色の光が彩度を増して死体に差し込んだ。
耳鳴りがする程の静けさ。
工事の音が聞こえた。
どこで工事をしているのだろうか。
鉄を削る様な音が小さく聞こえる。
オートバイのエンジンが近くで止まり、ガチャリと誰かが降りる音がした。
時計の針が小さく音をたてて動く。
コツ…コツ…。
廊下側の外から足音が聞こえた。
コツ…。コツ…。
足音はどんどん大きくなる。
コツ…。コツ…。
足音はどんどんどんどん大きくなり、死体のある部屋に近くなる。
コツ…。コツ…。コツ…。コツ…。コツ…。
足音は死体のある部屋のドアの前で、ピタリと止まった。
ドアの隙間から差し込む陽射しがドアの前に立つ人の影を作る。そしてがさごそとドアの前で音をたて、影もそれに合わせて少し揺れる。
ガチャ
郵便受けから音がした。
足音はまた音を鳴らし始め、少しずつ小さくなり、やがて聞こえなくなった。
オオオォと洞窟の様な重い音が部屋中にか弱く響く。
外でオートバイが走り出す。
また会話が聞こえた。今度は男性の声だ。
ハキハキと話しているが内容は聞こえない。
会話はすぐに終わり、足音が近づいた。
足音は大きくなり、そのまま小さくなる。
部屋が大分薄暗くなり、周りの空気も冷えた。
カラスの鳴き声も聞こえなくなり、車の通る音が頻繁に聞こえてくる。
パラパラと雨が降り始めた。小さく今にも消えてしまいそうな滴がサーっと薄い音を立てる。
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