リスクヘッジ(綾戸凛の場合)

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 羽虫はまだ後輩にたかっている。それでは奪われた私の仕事が、回らない。 「あの人、背負い込むのが好きみたいなんで、楽させるのが一番の嫌がらせかなと思ったんすけど……。それでも皆さんは仕事、あの人に任せきりにするつもりっスか」  羽虫が鳴かなくなった。 「皆さん、あの人が怖いから、あの人が仕事ができるから、任せきりにしてるんじゃないでしょ。やりたくないから、しないんでしょう。だから、彼女がこのフロアで無遠慮に煙草を吸っていても、近寄らなくて済む口実ができてやったーくらいにしか思わないんだ。それこそ、彼女が倒れたら、その穴は誰が埋めるんすか。彼女から教育されている俺ですか。違うでしょ。彼女の替えはきかないんですよ。とくに、あんたらみたいに甘ったれてる奴らのいるところで、あの人が消耗品扱いされる言われはないと思いますよ」  そして、明瞭に後輩の声が聞こえてしまう。地獄耳で、自分のポジティブな声はシャットアウトされていた耳が。 「……いい加減人任せにするの、やめたらどうすか、て、あの人からあんたらに言わせたかったけど」  鳴かなくなった羽虫は、屍と化したようで、一人だけ革靴でフロアを歩く音がする。(革靴の足音)  暫くして、また後輩はやってくる。(書類のSE)「はい。さっきの修正と、先輩の仕事の分」とつっけんどんに言う。    やっぱり、可愛くない後輩だ。 「——えっ。今……なんて……もう一回、もう一回言って!」  私は手持ち無沙汰のこの手が気になる素振りで、デスクの上を踊る。タバコだ。恋人が私の手になければ安心できない。  「あー、照れちゃって煙草を取り出したいんだろうけど……ソレ、先輩の行きつけコンビニのカロリーメイト」見下ろす後輩は、もはや嘲笑の閾の笑いを飛ばす。 「やっぱり、疲れてんだよ。そんなんで誤魔化し誤魔化しやってるから、周りの目なんか気にする余裕なく仕事に追われんだ。仕事、好きかもしんねぇけど、俺の教育係が倒れられたら、こっちも夢見悪りぃよ。それに、アンタの仕事を貰うために、わざわざ入社して間もない俺をこの部署に回してもらったんだ。目一杯、俺に仕事回せ。そんで、もっと俺に仕事、教えろ」  最初から可愛げがなかったのは、最初から私の存在を知っていたからだった。  そして、その意図も、私が思うより、随分と私に甘味を教えてくれる。どうやら、私は人に甘えていいらしい。  だから、後輩がさっき聴きそびれた情報をもう一度、口にした。  ——ありがとう——。    どうもむず痒くて、今度こそ、目視してタバコの火をつけた。(ライターSE)  「っ!! ありがとうが言える先輩は偉い!!」と子供をあやす手つきで、私のパサつく髪をかき回した。(わしゃわしゃ) 「それと。此処、本来は禁煙だから」  反論はない。仕事が減り手間が省けると、文句を言われる筋合いができてしまう。 「吸っちゃダメだ。俺の前では」  予想と違う叱り方をするので、思わず口に咥えたタバコを離す。 「だって、俺も吸いたくなるからさ!」  「先輩がスパスパ吸ってて、めっちゃ羨ましいけど、俺、まだまだ半人前のペーペーだから、堂々と煙草なんて吸えねぇの。もう、ヘビースモーカーの俺には毒だって話だ」とエアタバコを口元にあてがい、口寂しそうにする。 「けど、俺が仕事を覚えて、もっと使えるようになったら、その煙草についてる火、俺にちょうだい? ライターじゃなくて、アンタが咥えてる煙草の火」  「じゃ、残りの仕事ちょっぱやで済ませてくる。先輩も早めに仕事終わらせろよー。今日の夜、スタミナのつく飯屋に行くぞー」と勝手な約束を取り付けて、また、私の——いや、回されてきた仕事をとって行った。  私は呆然とした後、またタバコを咥える。  やっぱり、この後輩は可愛くない。  ——明日から、ナチュラルメイクでもするか。
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