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0.洞窟の奥に眠る『神』
ふぅ……ふぅ……。
天忍葛は耐寒マスクに覆われた口で、ゆっくりと息を吸った。
首にぶら下げた酸素濃度計は『12%』を表示している。実家の道場でそれなりに鍛えてある肉体と言え、およそ運動に向く濃度ではあるまい。背中から下げた簡易ボンベが無ければ、たちまちにして酸欠に陥るだろう。
アイゼンやストックが地面に当たるカチャカチャという無機質な金属音が耳を突く。
洞窟探検用の高光束LED灯で前方を照らしながらの行軍だが、光と闇の境目から何かが飛び出してくるかのような怖さを感じずにはいられない。
目出し帽とゴーグルで保護する顔が、凍てつく寒さに痛みを覚える。手首に付けた温度計は『マイナス25℃』。ここは洞窟だから強風に晒される事こそないが、8000メートル級の山頂に匹敵する冷たさが容赦なく体力を奪う。
更に背中には、自分の他にもう一人分の荷物も背負っているのだし。
「……教授、足元が悪いです。手を貸しますから、気をつけてください」
足を止めて振り返り、ふらつきながら付いてきた男にグローブの手を差し伸べた。荷物を預かっている『もう一人』である。
「おお、すまんな天忍君。はぁ……はぁ……それにしても厳しい道程とは聞いておったが、ここまでとは。もう2度と来ようとは思わんだろうな……。」
6時間に及ぶ洞窟探検に、還暦近い高御杉夫教授はすっかり参っているようだ。
「と、ところで天忍君の方は大丈夫なのか? いくら年齢が私の1/3とは言え、荷物も二人分だ。疲れたろう」
すっかり息が上がっている。
「いえ、僕は問題ありません。どうぞご心配なく」
疲れていないと言えば嘘になるが、なるべく明るく返す。
何しろ「結構な行軍らしいので、我がゼミで最も体力がありそうな君に着いて来て欲しい」と、たっての希望で指名されたのだ。175センチの上背に70キロの体重という日本人として特に恵体というわけでもないが、その期待に少しでも応えたいものだと思う。
「さ、後一息ですよ、教授。時間的に見て、そろそろ『例の場所』に到着する頃……」
前方を歩くメンバーのライトが、チラチラと洞窟の闇を照らす。と、その時。
「……おおーい、到着したぞぉ!」
少し先を歩いていた先導隊から声が飛んでくる。
「……行きましょう、教授」
高御の肩を担ぎ、葛がトレッキングシューズの足に力を込めた。
「おお……ここか?」
5分ほど歩いた先で、チームの面々が足を止めている。どうやら、かなりの大空間になっているようだ。体力を使い切った高御が思わずその場にへたり込む。
「教授、お疲れ様でした。ここが『アマノイワト洞窟』の最深部になります。……空間の広さは、体育館ほどはあろうかと」
先導隊の一人、井氷鹿椿樹が葛たちのところへやってきた。その声が、明らかに緊張で上ずっている。
「うむ……では君たちの言う『奇跡の発見』とやらを、早速見せてもらおうか」
ぐったりとはしているが、高御の声は期待と興奮に満ちていた。
「おーい、投光器を点けるぞぉ! 眩しいから気をつけて!」
反射する声とともに、辺りがパっ……と白色の光に照らし出される。
「おお! こ、これか……これは凄い!」
高御が思わず声を飲む、その眼前には巨大な氷壁が広がっていた。
そして、その中央に何やら『影』が……。
ジャリ……。
細かい砂粒を踏みしめながら、高御と葛が氷壁に近寄る。ライトに照らされた先で『閉じ込められていた』のは人間だった。獣の皮を細工したと思われる簡素な衣服を身にまとっている。上背は150~160センチくらいだろうか、無表情な顔に幼さが残る。現代人で言うなら十代後半くらいの年齢だろうか。
「少女……に見えますね。亡くなった時、まだ子供だったんでしょうか?」
恐る恐る、葛がライトを当てて高御の横から覗き込む。
その『少女』は固く閉ざされた氷の奥で、眠るようにじっと横たわっていた。
「うむ……ここの氷は少なくとも8000年前に出来ただろうと聞いておる。つまり彼女は縄文時代から、ここに眠っておるのだろう……」
思わず息を呑むその姿に腐食やミイラ化の痕跡はない。まるで今さっき死んだかのように極めて理想的な保存状態。そう……あたかも生きているかのような。
深い眠りに就くその眼はそっと閉じられ、細い両腕は腹の上で組まれている。そして、その全身に細い蔓草のようなものが巻き付けられてた。
「蔓草ですか……呪術か、祈祷の類いでしょうね」
ゴーグルを外し、氷に額を当てるようにして井氷鹿が目をみはる。
「はは……名前が欲しいですね。単なる『縄文人女性』では寂し過ぎますよ」
何処となく愛しらしく見える端正な顔立ちに、葛の口元が緩んだ。
「だな……古く神話時代に生きていたであろう女性……もしかしたらシャーマンだったのかも知れん。そして何よりここは『アマノイワト洞窟』。であれば、彼女の名前は『アマテラス』としよう。……世界を照らす『太陽の神』だ!」
声を震わせ、高御が大きく頷く。
……だが。
それは決して世界を照らす『太陽の神』ではなかった。
その反対に世界を殺戮と絶望に沈める『闇の災厄』であることを、後に人類は思い知る事になるのだ。
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