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相良さんが思いにふけるような表情をしたので、私が不思議に思って見ていると、相良さんが私の視線に気づいて言った。
「あ、いえ、昔のことを思い出しまして……学生の頃ですけど、ボクシングの試合中、対戦相手に顔面に思いきり打ち込まれて失神したことがありまして、それからしばらく、試合に出るのが怖くなったんです。ボクシングは殴り合う競技なので、失神したり、立ち上がれなくなるくらいボコボコに殴られるなんて、よくあることなんですが……」
相良さんは、情けない、という顔をして話をしてるけど……私はテレビでボクシングの試合の中継を見ているとき、激しく殴り合っているところ見て、思わず目を瞑ってしまうことが何度もある。見ているだけでも怖く感じるのだから、実際に殴られて恐怖を感じてしまってもおかしいことではない。
「試合に出るたび、また失神するんじゃないか、ボコボコにされるんじゃないかと不安になってしまいまして。そうしたら、前に勝てた相手にも負けるようになってしまいました。それで父親に言われたんです。『最初から負けると思ってたら、勝てる試合も勝てないぞ』って」
相良さんのお父さんの言葉が、私の胸に突き刺さる……
「その通りだと思いました。初めから俺は不安に負けていた。だから相手にも負けた……それからは、『絶対負けない』と自分に言い聞かせながら、相手と戦いました。そうしているうちに、試合に勝てるようになり、少しずつ恐怖心がなくなって普通に試合に出られるようになりました。まぁ結局、ケガに負けてプロになるのは諦めたんですけどね」
相良さんはそう言って、少しおどけて笑った。それから、
「でも、後悔はしてません。今はいい思い出です」
と、スッキリした表情で私を見つめて言った。
「すみません、急に余計な話をしてしまいまして」
「いえ……」
私は不安に飲まれることばかり考えていた。
初めから、不安に負けると決めつけていた。
――本当だ。そんな気持ちじゃ負けるに決まってる……
相良さんが「それじゃ、そろそろ」と席を立ちあがった。
「では深山さん、お互い後悔しない生き方をしましょう……あ、ストレス発散したくなったら、ジムにいつでもいらしてください」
「はい……本当にすみませんでした」
私は立ち上がり、深く頭を下げた。
相良さんは私を見て穏やかに笑って、カフェを出て行った。
――本当にごめんなさい。
私は、心の中でもう一度謝りながら、相良さんの背中を見えなくなるまで見送った。
そして……
『最初から負けると思っていたら、勝てる試合も勝てなくなる』
相良さんの言葉を心の中で繰り返した。
もう負けるなんて思わない。
私は心に決めた。
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