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05 距離【葉山】
※二人が付き合う前のお話しです。
「あれ? 葉山さん、何かイイ匂いしますね」
別室での打ち合わせの為に、PCや資料等を持って自席から移動しようとしていると、いつの間にか背後にいた雪橋に声を掛けられた。
既に準備完了の雪橋は、オレを待ってくれているようだ。
「え?」
待たせてはいけない、と少し焦っていた手が止まってしまった。
「何だろ……ローズ系?」
くん、と鼻を寄せて匂いを嗅がれて硬直した。
雪橋の顔が近い。
突然の出来事で身構える間もなかったから、無防備で受けてしまった。
心臓の音が聞こえてしまったら、どうしよう。
「ああ、いつもと石鹸が違うからかな。この前の忘年会でやったビンゴで貰ったボディソープを昨日から使ってみたんだ」
心当たりを早口で言い訳のように言って、不自然に思われないように距離を取る。
雪橋が近くにいるのはそれほど珍しくはないけれど、匂いを嗅がれるのは初の出来事で動揺を隠すのも難しい。
「へぇ」
雪橋もビンゴ大会に参加していたから、「そう言えば」と納得したようだった。
会社で催す忘年会は結構な規模で、ホテルの結婚式とかをやるような大きな広間を借りてやる。
お約束のビンゴ大会の景品は、豪華な物もあれば、しょぼい物もある訳で。
オレが手にしたのは、その辺のドラッグストアではお目に掛かった事の無い、女性が好みそうな凝った容器に入ったボディソープだった。
その場で知り合いの女性に譲っても良かったのだけど、家の石鹸が丁度切れそうで買おうとしていたのを思い出してそのまま持ち帰ったのだ。
「結構匂う?」
確かに、昨夜封を開けた時には、今まで使っていたものと全く違う、香水のような可憐な香りに驚いた。
けれど、風呂から上がった時には微かに香る程度だったし、朝起きた時にはもうそんな事は気にならなくなっていた。
まさか、自分でも忘れていた事を雪橋に気付かれるとは。
「いえ。近づいた時に、いつもと違うな、くらいです」
「いつもと違うって、よく分かったな、そんなの」
その程度なら良かった、と胸を撫で下ろした直後、何気ない一言に引っ掛かった。
と言う事は、雪橋にはいつものオレの匂いが分かるという事か?
「分かりますよ。シャンプーとか、洗剤とか、変わったらすぐに分かります」
雪橋がニコニコ笑いながらとんでも無い事を言う。
オレは、今まで生きてきて、他人のそんな些細な変化に気付いた事もなかった。
非モテ人生となった敗因はそこだろうか。
いや、その前に、そういう事は女の子に対して有効なのだろうから、オレがモテないのとはあまり関係ないか。
この場合、オレ的に問題なのは、オレのような男にも言ってしまうくらい、雪橋はそういう事を言い慣れているという事だろう。
きっと女の子に。
「雪橋、モテるだろ」
「そう見えます?」
いかにも、女子受けしそうな気付きだったので訊くと、雪橋が意外そうな表情になった。
「だって、シャンプー変えたとか、石鹸変えたとか、気付くところがマメすぎる」
「普段だったら言わないんですけど、今日の葉山さんのは好きな匂いだったんで、つい」
「……つい」
おい、雪橋。
その「つい」は、オレには絶対に言ってはいけない「つい」だぞ。
そういう意味じゃなくても、オレの前で「好き」なんて言うなよ。
勘違いしてしまうだろ。
文脈なんて関係なく、お前がオレに「好き」と言った事実だけが耳に残ってしまうからな。
「あー、なんかすみません」
思いがけずに聞けた雪橋の「好き」に動揺して何も言えなくなってしまったオレを見て、雪橋が気まずそうに頭を掻いた。
違うんだ。
これは、嬉しい気持ちを押し殺しているだけなんだ。
オレがこんな事で喜んでいるなんて知られたら、雪橋は気持ち悪いだろうから絶対に知られたくない。
「謝るなよ。雪橋の嫌いな匂いじゃなくて良かったよ」
何でもない風を装って笑う。
机の上の資料を手早く纏めながら、これが雪橋の好みの香りなのか、と密かに手首を鼻に近づけてその匂いを嗅いでみたけど、やはり自分ではよく分からなくて、雪橋の嗅覚の鋭さに感心するだけだった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
2021.2.7
ここまでお読みいただいた皆様はお気づきかと思いますが、雪橋が好きなのはボディソープの香りではありません。葉山です。
付き合う前の距離感を考えてみました。
雪橋は、こういう小さな積み重ねで距離を縮めていこうとするタイプ。
それに気付かない葉山は、「今日は雪橋とたくさん喋れてラッキー」と帰宅後に噛みしめるタイプです。
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