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雪橋が出張から戻ってきたのは、16時を少し回った頃だった。
「お疲れさまです。戻りましたー」
疲れなんて全く見えない雪橋に「お疲れさま」と声を掛けながら、内心はドキドキが止まらない。
この後、オレは雪橋にチョコを渡すんだ。
雪橋に、オレが。
いやいや、ただの代理が緊張してどうする。
大丈夫。
ただ渡すだけ。
そこにオレの気持ちは一切乗っていない。
「雪橋、戻ったばかりで悪いんだけど、手が空いたら声掛けてくれるか?」
「何ですか?」
「渡したいものがあるんだ」
こういう事は早々に片づけてしまうに限る。
強引に心の準備を終えて、椅子から立ち上がりながら言ったら、コートを脱ぎかけていた雪橋の手が止まってしまった。
「葉山さんが、俺にですか?」
不思議そうな表情でこちらを見ている。
え? 何?
そんなに変な事は言っていない筈だけれど。
ぐるぐる考えすぎて、言ってはいけない事でも言ってしまったか?
「オレがというか……」
厳密には、女性社員有志一同からの預かり物なんだけどな。
ごちゃごちゃ考えたり、説明するのは後にして、とりあえず現物を渡してしまおう。
何故か困惑気味の雪橋を引き連れて、給湯室の片隅に設置されている冷蔵庫に向かい、中から前島さんの綺麗な字で「雪橋さん」と書かれた付箋が貼ってあるチョコの箱を取り出した。
「これ」
「……これ、は」
雪橋は、目の前に差し出された箱にすぐに手を伸ばさなかった。
会社の先輩から渡された得体の知れない物に警戒しているようだ。
「毎年恒例で、有志の女性社員がバレンタインにチョコを恵んでくれるんだよ。さっき総務の前島さんが配ってたんだけど、雪橋が不在だったらオレが預かって」
男から貰ったという気持ち悪さを緩和するために、やや早口で説明をした。
間違ってもオレからではない、と笑う。
特別な感情なんて何もないんだぞー、という演技は上手くできただろうか。
そもそも、オレが雪橋を好きだなんて発想、普通の思考回路ならまず辿り着かないから杞憂にすぎないんだけど。
「………………そう、ですか」
チョコの箱をじっと見ていた雪橋の視線が床に落ちて、何となく寂しそうに見える。
残念なんだよな。
その気持ち、分かるぞ。
おっさんから貰うより、女の子から貰った方が良かったよな。
味は一緒かもしれないけど、気分が全く違うもんな。
今からでも、前島さんを呼んできて渡してもらった方が良いだろうか。
「渡す役がオレでゴメンな」
「それは、全然。ありがとうございます」
申し訳ない気分で謝ると、雪橋は慌てたように言ってチョコを受け取った。
これで今日のオレのミッションは完了だ。
午後からずっとこの事が気がかりで、全く仕事にならなかったからな。
寂しそうな雪橋の反応に胸を痛めつつ、自席に戻ろうと給湯室を出た。
「むしろ葉山さんから貰えて嬉しいです」
背後で雪橋が何かを呟いたようだった。
聞き取れた内容が不自然で、思わず振り向いた。
雪橋が気付いた訳がない。
男からチョコを渡されて残念、と雪橋に思われた事にオレが若干傷ついたなんて。
その気持ちを浮上させるような一言を、敢えて言ってくれたなんて、こっちの都合の良い解釈だ。
「何か言ったか?」
「いいえ。何でもないです」
誤魔化すように笑った雪橋には、それ以上聞き返す事はできなかった。
例え聞き違いだったとしても、そんな些細な一言でオレにとって今日は良い一日になったのだから。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
2021.2.14
「葉山からバレンタインのチョコを貰えたと思って糠喜びをする雪橋」と、「肩を落とした雪橋を見て、やはりこういう物は女の子から貰いたかっただろうと申し訳ない気持ちになる葉山」の話。
今更ながら、付き合う前の両片思いを書くのも楽しくなってきました。
もどかしい感じが癖になります。
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