02 彼氏【葉山】

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02 彼氏【葉山】

※少し長いです。3ページあります。順次公開していきます。 「はぁ……」  何度目かの重たい溜め息が落ちる。  勤務時間中だというのに、休憩スペースのテーブルにダラリと上体を預けてサボっていた。  手には自販機で買った缶コーヒーを握っているが、すっかり冷めてしまっている。  仕事に戻らなければならないのに、やる気が出ない。  理由は分かっている。  ここに来る前に、廊下でバッタリ会った雪橋の同期の高尾の一言だ。 『雪橋に彼女できたらしいんですけど、葉山さん何か知ってます?』 『訊いても詳しく教えてくれないし、絶対に会わせてくれないんですよ。気になりません?』  好奇心に満ちた高尾の明るい表情が、まるで別世界の出来事のように見えた。  頭が真っ白になって、その後の事はよく憶えていない。  雪橋と付き合う事になって、もうすぐ二ヶ月になろうかという所だ。  相変わらず優しい雪橋は、オレの前ではいつも楽しそうにしてくれている。  触れ合う事に、嫌な素振りは一切見せない。  だから、他に彼女がいるなんて思いもしなかった。 「彼女かぁ……」  ようやく溜め息以外に出てきた言葉は、なんとも憂鬱な単語だった。  そうだよな。  雪橋に彼女なんて、すぐに出来るよな。  いつかそんな日がくるんじゃないかと思っていたけれど、ちょっと早かったな。  もっと一緒にいたかったけど、雪橋だっていつまでもオレに付き合っていられないだろう。  短かったなぁ。  でも、思いがけない幸せを味わわせてもらえて嬉しかったよ。  最後はちゃんとしないとな。  雪橋に迷惑が掛からないように、ちゃんとお別れをしないと。  ……。  …………。  そんなの、すぐには無理だ。  だって、好きになり過ぎてしまった。  付き合う前だったら、きっと平気だったのに。  好きな人に彼女が出来たとか、いるとか、よくある事だったから。  だけど、雪橋は駄目だ。  あまりにも奥の方にまで入り込んでしまったから、離れようとしただけで心が裂けてしまう。  好きだよ、雪橋。  好きなのに。  もう、「好き」と言えないかもしれないなんて。 「理玖さん、どうかしたんですか?」  人の気配と声がしたので顔を上げると、雪橋が心配そうな表情で立っていた。  ちょっと飲み物を買いに行ってくる、と言って席を立ったきり戻らなかったから探しにきてくれたらしい。  会社では、基本的にオレを「葉山さん」と呼ぶ雪橋だけど、こうして二人きりになった時は名前で呼んでくれる事もある。  雪橋はオレが座る隣の椅子に腰を下ろして、オレの額に手を当てた。  大袈裟だな。  ただやる気が無くなってサボっているだけなのに。 「大丈夫」  心配を掛けまいと、雪橋の手をやんわりどかそうとしたけれど上手くいかなかった。  ピタリ、と額に当てられた雪橋の手が、温かいのか冷たいのかも分からない。  ただ、雪橋に触れられているという事実に高揚する自分がいるだけだ。 「大丈夫って顔じゃないですよ」  そう言って間近に迫って来る雪橋の方が辛そうだ。  オレの所為だな。  こんな所で、これ見よがしに具合悪そうにしているから。   「……大丈夫」 「今日はもう帰りましょう。家まで送りますから」 「いい」 「心配なんです」  愛想の悪いオレに根気強く手を差し伸べてくれる。  それが辛い。  もう優しくしないで欲しいのに。  優しくされる度にどんどん深く刺さっていくから、抜け出せなくなってしまうじゃないか。 「彼女に悪いから」  家まで送ってもらったら、オレは絶対に引き留めてしまう。  「帰らないで」と我が侭を言って、ベッドに引き摺り込むだろう。  だって、そのまま帰してしまったら、雪橋は彼女の所に行ってしまうかもしれないだろ。 「…………かの、じょ?」  雪橋の眉間に皺が寄っている。  オレに知られていた事が不満なのだろう。  時期が来たら、自分から言うつもりだったのかもしれない。  知らない振りをしていた方が良かったのだろうか。 「隠さなくてもいい。高尾から、雪橋に彼女ができたと聞いた」  そう言った声が震えていた。  雪橋の顔を見る事ができなかった。  こういう時、どうするのが正解なのだろう。  笑ってさよならなんて出来そうもない。  恨み事をいくつか喚いたら少しはスッキリするのかな。  どちらにしても、オレが振られるのは間違いないのだけれど……。
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