04 ある朝の【雪橋】

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 結局、俺は理玖さんに呼んでもらえるなら何でもいいのだ。  そこに拘りはない。  澄ましたような「雪橋」も、熱っぽい「陽輔」も、理玖さんの声なら簡単に舞い上がれる。  とは言え、いつまでも苗字というのも寂しい気がする。 「そー……いう、訳じゃない」  俺の意地悪な質問に、理玖さんは顔を赤くして困ったような顔を見せた。  それから、少し視線を外して躊躇うように口を開いた。 「…………勿体なくて」 「勿体ない?」  理玖さんの言葉の意味が分からず訊き返した。  一体、何が「勿体ない」というのだろう。  全く分からない。 「付き合ってる人の名前、大事に呼びたい……っていうの、変?」  ちらりとこちらを上目遣いで見ながら可愛い事を言うのは、色々な意味で危険です。  その静かな攻撃で、心臓を撃ち抜かれました。  元々撃たれていましたけど。  もう手遅れでしたけど。  今のは致命傷です。 「前に呼んだ時に喜んでくれたから、その嬉しい顔を大事にしたくて」  何ですか、その意味不明な理由は。  俺が喜んだから名前で呼ぶのを控えていたって、意味が分かりません。  単純に逆だと思うのですが?  俺が喜ぶと分かっているのに何故セーブするんです。 「あんまり言ったら、嬉しいって思ってもらえなくなるかと」  ちょっと、もう勘弁してください。  もう既に心臓止まりそうなのに、これ以上は無理です。  あんまり可愛い事を言われると暴走しますよ。 「理玖さん、それ全然違いますから!」  どういう思考を進めたらそんな結論になるのかは不明だけど、俺が理玖さんに何かをしてもらって嬉しいと思わなくなるなんてありえません。 「俺の名前に回数制限とか無いんで、好きなだけ呼んでください。理玖さんに呼ばれる為の名前ですから」 「そう、なのか?」 「はい」  勢いよく頷くと、理玖さんは探るようにこちらを見た。  そんな所で遠慮なんてしなくてもいいのに。 「じゃあ、本当にたくさん呼んでもいいのか?」 「勿論です」  念を押すように訊いてくるので、即答した。  昨夜はたくさん呼んでくれましたけどね、と迂闊に思い出してうっかり兆してしまう。 「……陽輔」  小さな声が聞こえた。  できれば、もうちょっと音量上げて欲しい。  しかし、微かに聞こえるのも良い。  相変わらず拘りの無さに苦笑していると、理玖さんの様子がおかしいことに気付く。  膝を抱えて小さくなり、手に持っていたマグカップで顔を隠してしまっている。 「どうしました?」 「ゴメン。なんか、オレの方が嬉しくなって恥ずかしい」  顔を隠したまま、覗き込んだ俺をクリティカルに射貫く。  耳も首も真っ赤にして、予想もしなかった反応をするから骨も砕けた。   「理玖斗さん……」 「だから、ゴメンって」  あまりの可愛さに脱力した俺と、何故か謝る理玖さん。  きっと理玖さんは、この瞬間も俺が耐えている事に気付いていない。  気付いた上の言動だったら、こんなのは小悪魔通り越して悪魔だ。  簡単に魂抜かれる。  すみません。  ちょっと、この人、犯していいですか?  いいですよね。  起きたばかりだけど。  まだ朝だけど。  言った傍から殴られるかもしれないけど。  俺に甘い理玖さんが本当に殴るなんて事は無いとの確信の元、理玖さんの手からカップを奪って抱き寄せた。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 2021.2.2 こんな事を言っているけど、葉山が何の躊躇いもなく雪橋を名前で呼べるようになるにはもう少し時間がかかると思います。 緊張しながらの「陽輔」呼びに、きっと雪橋は心の中でガッツポーズです。
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