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「また千代がお召し物を汚して…」
ぼやく乳母の腕、そこからこぼれた帯の先に獣の足跡が付いていた。
○
「ゆーきーちゃん、あそぼ」
千代は活発な少女だった。私の姪で昔から病弱だと聞いていたが最近は離れから私の部屋によく来てはお手玉やおはじきなどで遊ぶようになっていた。
「じゃあ、次はおままごとね」
彼女が私の両親の経営する診療所に通い始めて二ヶ月。ここに来た当初はあまり物も言わず、離れの中でじっとしていたと聞いていた。
そこから随分回復したと乳母からも両親からも聞いていたが…
「じゃあ、この人ぎょ…」
ピタリと動きを止める千代。
彼女の視線の先には畳に置かれた一体の市松人形がある。
ついで彼女の口が大きく開くと、そこからずるりと黄土色をした毛深い獣の足が伸びていき、タンっと市松人形の帯に触れた。
「…あ、人形が汚れちゃった」
ハッとした顔の千代…人形の帯には獣と思しき赤黒い足跡が付いていた。
○
「…千代は獣塚の前で倒れているところを地元の猟師に見つけられたそうだ、罠にはまり恨み死んだ獣を弔う塚だから千代の病もきっと憑きものによるものだろう。薬ではダメだ、良い拝み屋がいるから今夜にでも頼もうと思う」
チンッと受話器を置き、父が廊下を歩いていく。
私は寝返りを打つと10時を過ぎた柱時計をぼんやりと眺めた。
障子に目を移せば月明かりが差し込み私はまどろみながらそれを眺める。
…気がつけば、障子に影が差していた。
風の吹き込む音が聞こえるので、誰かが縁側から入ってきたことがわかった。
「千代…ちゃん?」
寝間着姿の私は布団から半身を起こしてそう尋ねた。
…なぜだろうか、あの向こうにいるのは千代ちゃんの気がする。
その時、障子がすっと開いたかと思うと何かが私の口にずるりと侵入し、ひどい獣の匂いが喉元を通り過ぎて行った…
○
「…拝み屋が来た時にはすでに事切れていたそうだ。胃から何から食い荒らされて、中身はもはや空洞だったよ」
廊下の向こうでバタバタと人が行き交う音が聞こえる。父の話によると、今日のうちに葬儀屋が来て千代ちゃんのお通夜が行われるということだった。
乳母がお棺に入れるものをというので私もあの子が寂しくないよう昨日まで彼女が遊んでいた市松人形を手に取る。
…ぱたっ
気がつけば、私の口は大きく開いていた。
市松人形の着物には千代ちゃんに渡した時と同じ獣の足跡が付いていた。
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