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帰宅した巴を、兼遠が待ち構えていた。珍しく、二人の兄達、兼光と兼平もいる。
「いつまでも男子のようでは、嫁の貰い手がないぞ」
「まあまあ、父上。巴も年頃ですし、そのうちには……」
既に、巴が聞き飽きた小言を繰り返す父を、兼光がなだめた。
兼平は、近頃武芸において、自分に引けを取らなくなった男勝りの妹が、父に叱られるのはいい気味だといわんばかりに、にやにやとした表情で巴を眺めている。
「なら、俺が婿になってやるよ。巴」
義仲だった。
ほんの、戯れ言だと思った。
乳母子に過ぎぬ自分が、妻になれるはずがない。それは、とうに知っていた。
ただ、兄達と同じように、側近くにいたい。だから、馬に乗り、弓を引いて、剣も握った。狩りの供をして地形を覚え、漢籍を学んだ。箏も縫い物も、できなくても構わない。美しい衣を身に纏うより、武芸の腕を磨くことを選んだ。
「勘弁して下さいよ、冠者殿」
場の空気を動かしたのは、兼平の言葉であった。
「何だ、兼平。俺が義兄では不満か」
あまりにうんざりとしたその言い草に、義仲はわざと機嫌を損ねた様子を見せる。
「いえ、そうではなくて……この妹に、礼を尽くす日が来るなど、考えたくないだけです」
慌てて付け加えた兼平に、ほんの少しだけ、夢うつつであった巴が我に返った。
「今井の兄様、それはどういう意味ですか」
「そのままだ。このじゃじゃ馬が」
「兄様は、この前の流鏑馬で私に負けたのが悔しいのでしょう。いつも、詰めが甘いから」
「な、何だと」
今にも掴み掛らんばかりの二人に、義仲と兼光は、また始まったと呆れて顔を見合わせた。昔から喧嘩の多い二人だが、巴が武芸の腕を上げた最近では、特にその勝負を巡って、顔を合わせる度に言い合いをしている。
「兼平、巴、いい加減にしろ。冠者殿の御前だ」
五郎の、縋るような視線を受けた兼遠が一喝して、場を収めた。
「冠者殿。本当に、妹を妻にとお望みですか」
愛馬を引いて厩へと消えた巴を見送り、兼光が口を開いた。
「もちろんだ。そうでなければ、中原殿はもちろん、本人の前で言うわけがないだろう」
答える義仲には、一片の躊躇いもない。
「しかし皆が、特に滋野の者達が、冠者殿には、山吹を妻合わせるつもりであることくらい、ご存じでしょう」
「それが何だ。巴とて山吹の従姉妹なのだから、構わんだろう」
「冠者殿、山吹は滋野の棟梁、海野の娘です。彼女を妻にすれば、必ずやお役に立ちます」
戻った巴が、真剣な顔で言う。
「何だ巴まで。そんなに、俺が嫌いなのか」
義仲の表情が僅かに険しくなる。
「お前とて、その棟梁の姪だ。大して違いはない。全く、兄妹揃って……」
それでも巴は、義仲の言葉を受け入れようとはしなかった。
「いいえ、山吹と私は異なります。滋野の方々は、山吹が叔父の娘だから従うのではありません。山吹の母が海野の先代の娘だから、山吹が先代の孫だから従うのです」
海野の血。
それは、巴には努力を積んでも得られぬものであった。それこそが、山吹と巴の違い。巴ではなく山吹が、義仲の伴侶にと目される理由。
「それに……彼女のような姫こそ、冠者殿のご身分にふさわしい」
巴は、そっと言葉を付け加えた。
山吹に初めて会った時、同い歳とは思えぬ程美しい少女に、巴は、頭を垂れるのも忘れて見惚れた。射干玉の黒髪が、ふっくらと白い頬を流れ、切れ長の目元に、漆黒の双眸が煌めく。姫君とは、彼女のような人を言うのだと思った。
山吹は、何から何まで、巴とは正反対であった。針を持てば、美しい装束が仕上がり、箏を奏でれば、滑らかな音色が屋敷中に響く。都に流行る物語や絵巻物にも詳しく、時に諳んじて語った。
いずれ、家名復興を果たすべき源氏の御曹司には、相応の教養を身に付けた山吹が、妻になるべきだ。
「俺は、巴がいい。考えておいてくれ」
彼の言葉は、甘やかな響きを含んで巴の耳に届いた。
嬉しかった。
本当は、すぐにも肯定の返事をしたい。
それが、許されるのならば。
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