山吹と巴

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 数ヶ月が過ぎた。  信濃の山々が秋色に染まり、田畑が秋の実りに恵まれる季節が訪れる。樋口兼光は馬を走らせ、荘園の管理のため、木曽谷に滞在する父を訪ねた。 「父上、突然のご無礼お許し下さい」 「何だ、騒々しい。兼光にしては珍しいな」 「諏訪の金刺(かなさし)殿が、娘御の婿君に冠者殿を迎える動きがあると、舅殿が」  金刺氏は、滋野党とは別の勢力、諏訪神党の棟梁であり、信濃国の一宮、諏訪神社下社の大祝(おおほうり)を代々務める。現在の当主は金刺盛澄(かなさしのもりずみ)。兼遠が信濃国権守の任にあった頃から親しく、弓馬に優れた人物である。  盛澄の娘胡蝶(こちょう)は、数ヶ月前に裳着を迎えたばかりだ。それをもう嫁がせようとは、諏訪にも、滋野と同様の意図があるのだろう。それを、兼光がいち早く知ることができたのは、その妻が、諏訪神党に属する茅野氏(ちのし)だからである。 「よく知らせてくれた、兼光。話はまだ、広まっておらぬか」 「はい。諏訪の中でも、さほどには」 「それで、茅野殿は何と」 「いずれは、金刺殿の娘御が冠者殿のお側にお仕えするにしろ、海野を差し置いてまで婿君として迎えることはないと」  兼遠は、この報をもたらしたのが、息子であったことに安堵した。  未だ、内々の話なのであろう。先に噂でも広まってしまえば、滋野の中にはそれを快く思わぬ者も出てくる。今のうちに知らせ、手を打つ必要があった。  兼遠は、茅野の心遣いを有難く思いながらも、義仲と巴を慮った。 「急ぎ、皆に知らせねば。儂は幸親の館へ行く。兼光は府中の冠者殿と、兼平にも知らせを頼む」  そうして兼遠は、慌ただしく出立した。 「私も、参ります」  父と入れ替わるように、騎乗の用意を調えた巴が、春風と共に姿を見せた。 「巴、聞いていたのか」 「申し訳ありません。兄様が、ただならぬご様子でしたので」  兼光は自身の迂闊さを後悔した。こんな形で、妹に伝わって欲しくはなかったのだ。しかし、どう伝えるべきかと問われても、答えなど持ってはいない。  巴には、そんな兄の心を知ってか知らずか、一見して動じた様子はない。平然として見せる妹を、兼光は不憫にも、愛おしく思った。  兼平に知らせるため、今井へ向かった兼光に代わり、巴が府中の義仲に知らせた。兼光は巴に、今井に行くよう指示したが、巴が譲らなかったのだ。 「思わぬことで、猶予がなくなってしまったな。巴、返事を聞かせてくれるか」  諏訪の動きを知った義仲は、引き返せない事態が迫っていることを察した。 「私では、冠者殿の嫡妻は務まりません」 「お前なら、やればできるだろう。女子の身で、兼平達に引けを取らぬ腕を身に付けたのだ。それは、並大抵のことではあるまい」 「私は、好きなことをしてきただけです。それが、たまたま弓馬であっただけのこと」  巴は頑なに、拒んだ。  受け入れるわけにはいかないのだ。  しかし、同時に巴は、義仲に対する自分自身の気持ちだけは口に出来なかった。  他に想う相手がいると言えば、義仲も諦めるだろう。  しかし巴は、その嘘だけは、吐きたくなかった。
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