巴と山吹

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 少女は、物売りの葵であった。 「止めてくれるな」  親忠が割り込んできた葵を突き飛ばす。葵は土壁に身体を打ち付け、その拍子に、深めに被っていた布が外れた。 「い、痛っ」 「す、すまぬ、唐糸殿」  慌てて葵に近づいた親忠は、そう言った。驚いた巴が、葵の顔を覗き込む。 「か、唐糸殿……」  葵は、白粧もせず眉も描いていないが、言われて見れば、よく整った愛らしい顔立ちで、確かに唐糸の面影がある。 「このくらい平気よ。もう、せっかくうまく隠せていたのに……六郎殿が名前を呼び間違えるから、わかっちゃったじゃない」  葵こと唐糸は、少し頬を膨らませて親忠を睨む。  その口調や表情は、確かに唐糸のものである。そこで巴は、『物売りの葵』の印象が全く残っていないことに気付いた。『葵』は、極力、人の記憶に残らぬよう振る舞っていたのだ。 「唐糸殿が、葵殿……」 「『物売りの葵』なんて最初からいないの。私の変装。仕方ないわね。でも……彩女さんだけには、内密にしておいてくださるかしら、巴殿」  すっかり正体を顕した唐糸は、雅な笑みを浮かべる。とても、人にものを頼む態度は思えない、勝ち気な言い草であった。 「彩女だけでいいのか」 「ええ、いずれ冠者殿や山吹殿、四郎殿達にはわかること。でも、彩女さんや他の下女達に知られるのは、困るのよ。今回、助けて差し上げたのだから、貸し借り無しってことで」 「それは有り難いが……別に、私のために割って入ったのではないだろう」  割って入った時、唐糸は、「私は認められない」と言ったのだ。それは唐糸が、何より自分自身のために行動したということである。 「巴殿には敵わないわ。じゃあ、全部話すから、それでいいかしら」 「どうせ、皆に知れることを」 「ふふっ、それはどうかしら」  微笑を浮かべた唐糸は、そっと妻戸を閉じ、『物売りの葵』の話を始めた。  唐糸は、その父小室光兼の命で、物売り姿であちこちの館に出入りし、情報を集めているのだという。 「内緒話は、こういう塗籠とかでしないと駄目よ、巴殿。海野殿の館、それも山吹殿のお部屋なんて、盗み聞きし放題だもの」  唐糸が、可愛らしく首を傾げる。  確かに、海野の館は人の出入りが多い。山吹の居室も下女達が出入りし、人払いをしたと言ってもせいぜい廂や簀子縁までである。その外を歩く物売りの一人や二人、近づいたところで、誰も気にしない。
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