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落合に留まって数日、ついにその日が来た。
夕刻になると庭の篝火が焚かれ、室内の燈台が灯される。
次第に、夜の帳が下りる。
義仲が寝殿に上がる。
寝殿に置かれた御帳台には、山吹がいる。義仲が御帳台に入ると、山吹の乳母が二人に衾を掛けた。
寝殿に隣り合う塗籠では、敷かれた寝具の上に巴がいた。
妻戸が開く音がすると、巴は思わず身を硬くした。几帳が揺れ、燈台の頼りない灯りが、御帳台から静かに抜け出してきた人物の影を、映し出す。
「巴、本当にいいのか」
正面に座った義仲が、優しい声で問い掛ける。
「はい」
「もう、引き返せない」
「構いませぬ」
「六郎のことは聞いた。その方が、幸せになれる」
巴が親忠の気持ちに応えるというのなら、おそらく、滋野の誰もが反対しない。親忠の父である根井行親は、滋野の中でも一二を争う豪傑である。親忠に武勇に優れた巴が嫁ぐとなれば、根井家は、諸手を挙げて歓迎するであろう。巴は、根井家から丁重に扱われ、平穏な暮らしが望める。
それもまた、一つの方法ではある。
しかし巴は、今さらその平穏に逃げる気にはなれない。
「何が幸せかは、私が決めることです」
巴は、緊張に震える声で返す。
「すまぬ」
義仲は、巴の前に両手をついて頭を下げた。巴に頭を下げたのは、これでもう三人目だ。別の方向に暴走した親忠を入れれば、四人になる。
都を訪れた兄の兼光。
当事者であって当事者でない山吹。
そして、当事者である義仲。
この後には、父の兼遠や山吹の父幸親が続くのだろう。
義仲は、苦渋に満ちた声で続けた。
「俺に、もっと強い力があれば……滋野に頼ることなく生きられる身分であれば、巴を、こんな目に合わせることはなかった……」
義仲には、巴に、ごく普通の、平穏な暮らしを与えることができない。
しかしその言葉は、巴の胸に温かく染み込んだ。心から自分を思ってくれるからこその、謝罪だ。巴には、それで充分だった。
「もしそうなら、私は冠者殿にお仕えしていません」
巴の母は義仲の乳母であった。しかし、義仲の父義賢が殺されたとき、兼遠に従って、既に信濃に移っていた。もし義賢が健在であれば、義仲が信濃に落ち延びることはなく、二人の縁は、今より薄いものになっていただろう。
「巴……」
義仲の視線が、真っ直ぐ巴を捉える。その眼差しは、巴への感謝で溢れている。
「今回、初めて冠者殿への気持ちが許されたような気がします……この想いは許されないと知りながらも、突き放すことができませんでした。自分には、忠義が欠けているのだと」
巴は、思い悩んでいた。
自分がすべきことは何か、明確な答えがあるのに、どうしても実行することができなかった。できないということは、不忠ではないか、守るべき忠節を、蔑ろにしているのではないか、と。
「巴の忠義は、兼平と並んで誰にも負けぬ」
義仲は、力強く断言した。
兄の名が出たことに、巴は思わず苦笑する。
「やはり、今井の兄は特別なのですね」
「あ、いや……それは……」
義仲と兼平は、乳兄弟の中でも歳が近く、特に仲が良い。その絆が、巴には羨ましくも妬ましい。
「だから、兄には負けたくないのです。でも、今日からは違います。今井の兄にも、他の誰にもできぬことが、できるのです」
巴はそれを、誇らしいと思えた。
「確かに。こればかりは、兼平には無理だな」
巴の言葉に、義仲は少し微妙な顔をした後、吹き出した。つられて、巴も笑いが止まらなくなる。いらぬ想像が、脳裏を過ぎった。
ひとしきり笑うと、二人とも落ち着いた。
「私は、ずっと兄達を羨んでいました。どうして自分は、男子に産まれなかったのかと、悔しい思いを抱いていました。でもこれだけは、女子の私にしかできぬことです。きっと私は、このために女子に産まれたのです」
そうして今度は、からりとして曇りのない笑顔を浮かべた。
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