山吹と巴

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 明けて翌日、ようやく日の昇り始めた頃。  巴は一人、厩へと足を運んだ。人の気配に、厄除けに飼われている猿が鳴き、一頭の馬が横木の上から鼻をすり寄せる。 「春風」  巴は、馬を驚かさないよう、できる限り穏やかに名を呼んだ。 「すまないが、少し付き合ってくれないか」  春風は是と答えるかの如く、さらにその鼻を巴の頬に近付ける。  一頻り、その首と鼻筋を撫でた巴は、丁寧に手入れしてやり、鞍や鐙、轡などの馬装を施すと、春風と厩を繋ぐ紐を外した。  春風は、連銭蘆毛(れんせんあしげ)が美しい木曽産(きそうまれ)の馬で、もとは巴の父兼遠に献上された。丈は四尺五寸と名馬の器ながら気性が荒く、乗りこなせる者がなく、厩へ留め置かれた。  澄んだ瞳と美しい毛並みに魅了された巴は、乗り手のいないこの馬を、下男達に混じって毎日、世話した。馬にも、心が通じたのであろう。次第に、鼻を寄せて親愛の情を示すようになり、巴をその背に、乗せてくれた。  そんな経緯で自分に与えられることになったこの馬を、巴は「春風」と名付けた。  桧の生い茂る森を駆けた。しばらく進むと木々が開け、小さな渓流が現れる。巴は手綱を牽きながら、なだらかな斜面を選んでほとりに降りた。春風は、清く冷たい水に喜び、咽を潤す。 「なあ。春風は、どう思う」  巴は思わず、愛馬に語りかけた。 「冠者殿には山吹と、決まってる。けれど、冠者殿も兄上達も……叶わないのだから、期待を持たせるようなことなど、言わなければいいのに」  水を飲み終えた春風の濡れた口元が、巴の頬を撫でる。 「春風、冷たいじゃないか」  慰めるようなその仕草が嬉しくて、巴はしばらくの間、愛馬とじゃれ合った。  気がつけば、周囲が既に明るくなっている。  そろそろ、戻らなければいけない。特に今は、海野の館に滞在しているのだ。巴のやるべき仕事は、多い。  それでも、山吹と顔を合わせなければいけないことを考えると、すぐに帰る気分にはなれない。巴は、斜面を登り切った後も春風の背には乗らず、手綱を牽いたまま歩くことにした。 「本当は、ずっとお慕いしていた」  愛馬の他は、誰も聞く者のいない気楽さから、本音が零れる。 「叶わないと、承知していた。だからせめて、お側にお仕えできればと」  並んで歩いていた春風がふと、顔を上げて耳を立てる。 「どうしたんだんだ」  巴の呼びかけに春風は、顔を左へ向けた。 「一体、何が……」  不審に思った巴は、愛馬が示した方向へ進んでみる。ガサガサと草を掻き分ける音がして、思わぬ人物が姿を見せた。
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