山吹と巴

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山吹と巴

 幾重にも重なる衣の袖口から、白魚のごとく滑らかな、長い指が覗く。その指は優雅な動きで、(そう)の琴を奏でる。美しく、どこか悲しげな音色が、屋敷の外にまで広がった。 「この曲、なんていうかわかる」  鈴を振るように愛らしい声が、(ともえ)の耳に刺さる。言葉は問い掛けだが、知っていて当然と、言われているのだ。もう何度も、彼女が、山吹(やまぶき)が奏でる箏を聞かされているのだから。  しかし、音曲に疎い巴は、どの曲も違いがわからない。美しい音色だとは思うが、それだけであった。  山吹は、古くから信濃国東部に勢力を伸ばす滋野党(しげのとう)の棟梁、海野幸親(うんのゆきちか)の娘である。その幸親の兄で、信濃権守であった中原兼遠(なかはらのかねとお)が巴の父だから、二人は従姉妹同士だ。しかし、この地の棟梁が海野に婿入りした幸親である以上、山吹に対して、無礼は許されない。  巴は、何度か山吹の箏を聞くうち、雰囲気によって、曲名を判別することを覚えた。 「『想夫恋(そうふれん)』、でしょうか」  もの悲しさを含んだ曲といえば、まずこれが浮かんだ。 「正解よ。だいぶわかるようになったのね。それとも、この曲だからかしら」  山吹の言葉に、巴は曲名を当てたことを後悔した。  『想夫恋』は、本来『相府蓮』と書き、かつて大陸に栄えた、晋朝の大臣の邸に咲く蓮を歌ったものであった。それが、読み方が通じる『想夫恋』と書かれ、男性を慕う女性の気持ちを歌うものとされている。 「何度も、聴かせて頂きましたから」 「そうかしら。『青海波(せいがいは)』もよく弾くけれど、当てたことなんてないじゃない」  巴の返事に、山吹の機嫌が悪くなる。『青海波』は、似たような雰囲気の曲が多く、わかりづらい。しかしそれを言っても無駄だ。  今の山吹は、巴に曲名を当てさせようとしているのではないのだから。 「ねえ、巴。巴には、『想夫恋』を捧げたくなるようなお相手はいないの」  口を閉ざした巴に、山吹が問い掛ける。 「そのような御方は、おりませぬ」  巴は辛うじて声の震えを抑え、俯いたまま、ようやく言葉を絞り出す。 「本当に」 「もちろんです」 「じゃあ、私が冠者(かんじゃ)殿を婿殿をお迎えしても、巴は平気なのね」 「心より、お祝いします」  そう答えた声は、自分でも驚く程に擦れている。 「そんなの、うそよ」  山吹の声が、甲高く響く。  次の瞬間、山吹の傍らに置かれていた譜本が、巴に向かって投げつけられた。
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