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この現実から逃げ出したい。
すぐに“行く”と、言ってしまいそうになった私だけど、きっと何も解決しない。むしろ音色の生活が昔の自分と重なって辛くなり落ち込むだろう。
私はふぅと、息を吸った。
「ありがとう心配してくれて。でも今日は部屋の片付けをしたりしたいから遠慮しとくよ」
すると音色は少し間を開けた後に「そっかそうだよね……」と小さく笑って言った。
「ごめんね」
「ううん、私こそごめん、ひばり忙しくしてるっていうのにね」
「ううん……」
音色に気を遣わせていることが辛い。でも今は前のように気軽に会えない。いつまでそうなのだろうか……。
「ねぇひばり、何かあったらいつでも連絡してよ」
「うん」
「私も連絡するからね」
そう言った音色は言葉通り、しばらく毎日メッセージを送ってくれたけれど、それは三週間ほどで途切れた。
なぜならスマホの通話料が払えなくなったからである。
「ひばりちゃん、大丈夫?持てる?」
「大丈夫、ありがとう」
それから三週間後の私は、ホテルの披露宴会場にいた。といっても、自分の結婚式でもなく誰か知人のというわけでもない、アルバイト中なのだ。
生活費と学費を稼ぐためである。
少量のお金は父から振り込まれるものの、それだけでは足りないので、一人暮らしをはじめてわりとすぐに働き始めた。
「逞しいね」
そう言って笑うのは同じくアルバイトで同じ歳の大学生の西宮廉だ。
彼は結婚式場でアルバイトをしている私の指導役。彼は私より半年ほど前からアルバイトをしているらしい。
女子校育ちのため、はじめは男性の彼に苦手意識を持っていたけれど、明るくて面倒見のよい性格の彼を今では“廉君”と呼んで仕事を教わっている。
「あ……逞しいなんて女性に使う言葉じゃないね」
「ううん、嬉しい、ありがとう」
たしかに女性に対して逞しいというのは褒め言葉ではないかもしれないが、私としては少しは役に立てていると思え嬉しかった。
というのも、アルバイトをはじめるのが初めての私は、グラスを乗せたトレイを運ぶこともまともできない使えない者だったからだ。
それが今はというと、ワイングラスや重ねた皿をトレイにバランスよく乗せ移動できている。
私が小さく笑うと、廉君はホッとしたように頬を緩めた。
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