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清らかな睡り
沖法師は十年に一度の結界検分へと向かっていた。
この仕事は先先代から続く、最も重要なものだと聞いている。
確かに五十年、百年と経つ結界ならば検分の必要が出てくるだろう。
しかし十年に一度とは、また頻繁である。
それほどまでに強大な妖が封じられているのかと、沖法師は身震いしていた。
傍には相棒の豆狸ーー豆吉が人に化け、威勢よく歩いている。
助けてくれる師はもう亡く心許ないが、これからは豆吉と共に歩んでいくしかない。
沖法師の先先代はとうに亡くなっており、先代も数週間前に不慮の事故で急死してしまった。
詳細を知らぬまま、ただ怠るわけにはいかないとやって来た沖法師だったが、目的の地にたどり着くと頭を抱えそうになった。
人里の奥にそびえる山からは、先先代の強力な結界と、そこから滲み出る妖気を感じたからだ。
「おら…こわい」
豆吉も強大な妖気を感じたのだろう。
先程までの威勢は何処へやら、沖法師の膝ほどまでしかない背丈で、必死に脚をよじ登ってくる。
沖法師は豆吉の頭を撫でてやりながら、懐の御守りへと手を伸ばした。
「大丈夫だ。きっと先代たちが護ってくださる」
胸元まで登ってきた豆吉を抱きしめながら、沖法師は人里へと下りていった。
*
「もうずいぶんと昔の事でございます。この地は鬼祓師・藤代家の方々によって代々治められていたと聞きます。…しかし、最後の当主だった紀一様が若くして身罷られてたとか…。その後、藤代家の恩恵は薄れ、悪鬼達が蔓延るようになったそうです。若い男はみな悪鬼に取り殺されてしまい、残された年寄りや女子供たちは困り果てていたと聞きます。そんなおり、尊治法師様が悪鬼をあの山に封印してくださったのです。以来、結界に綻びが出ぬよう十年に一度、法師様に来ていてだいております」
沖法師が見たところ、山には強い力を持つ妖が封じ込められており、その妖力によって、この地は守られているようだ。
そのため他の妖たちは、この地で大きな悪さを出来ないでいる。
「鬼祓師の一族に変わり、鬼の妖力がこの地を守っているという事か?」
首を傾げながら沖法師に聞いてくる豆吉に、村の言い伝えを話してくれていた里長が目を細める。
まだ子だぬきの豆吉は、人に化けると愛らしい幼児の姿になる。
手も口も菓子屑や餡でべとべとの豆吉の頭を、その通りだと沖法師は撫でてやった。
里の者たちは沖法師たちを、とても歓迎して迎え入れてくれた。
しかしその歓迎様に仕事の重要さを感じた沖法師は、キリキリと胃を痛めていた。
ところがその横でである、豆吉は大量の菓子のもてなしを受けている。
貴重な砂糖をふんだんに使っているらしい菓子の数々に、豆吉はご満悦だ。
悪戯もせず大人しい様子には助かっているが、その緊張感の無さには呆れていた。
事の重要さを分かっていないらしい、先ほどまであんなに怯えていたことは忘れてしまっているのだろう。
先ほどから里長はそんな豆吉に柔らかい笑顔を向けて、追加の菓子を勧めている。
おっとりとした里長からは恵まれている者特有の、柔らかさが滲み出ていた。
立ち並ぶ立派な家々といい、身なりのいい里の者たちといい、この地はかなり豊かなようだ。
とても鬼に脅かされているとは思えなかった。
詳しい情報を得ようと、里長の屋敷を訪れたのだが、里長は沖法師の二回り上とまだ若く、伝え聞く話しか知らないようだった。
「長旅お疲れでしたでしょう。今日はどうぞゆっくりお休みください。明日、この里で最年長の者の元へお連れします」
「ああ、それは助かります」
沖法師はさらに菓子を頬張ろうとする豆吉を引き連れて、寝所へと向かった。
*
下準備に忙しい沖法師の目を盗み、豆吉は山へと向かっていた。
昨晩から"一人で山に近づいてはいけない"と何度も約束させられていたが、豆吉に端から約束を守る気はなかった。
悪鬼の正体を突き止めて成敗してしまった方が手っ取り早い。
なぜ先代法師たちはそうしなかったのかと、豆吉は首を傾げる。
しかし、そんな疑問はすぐに吹き飛んでしまい、"沖法師と二人で先代たちができなかったことをやり遂げる"という豆吉の勝手な目標へと頭の中は切り替わった。
『切り替えの早いところが豆吉の良いところだ』と沖法師に褒められ豆吉は大喜びしていたが、"思慮が足りなく、そのせいで問題をよく持ち込む"と思われていることは知らない。
「おらを菓子を貪るだけの役立たずだと思うなよ!」
己を鼓舞すると、山へと踏み入った。
結界の中では、外に滲み出ていた妖力がそこかしこに感じられる。
これでは鬼の位置が特定できない。
豆吉は目を凝らし、鼻をひくつかせ、五感で手がかりを得ようと足を進めた。
すると中腹あたりで、踏み固められた道を見つける。
さらに先には炭になった枝が積み重なっていた。それには甘い香の匂いが漂っている。
結界が張られてから幾十年、人の踏み入るはずのない山中に何者かの形跡が残っている。
確かにこの山には鬼が棲んでいるのだ。
豆吉はごくりと唾を飲み込み、今にも逃げ出したい気持ちを、沖法師ののっぺりとした顔を思い浮かべる事でなんとか堪えた。
親を亡くし、生きるために悪さばかりしていた豆吉を沖法師は退治せず、相棒としてそばに置いてくれている。
そんな沖法師は慕っていた先代法師を亡くしたばかりにも関わらず、悲しみに浸る暇なく後継として仕事に追われている。
狸にだって義の心はある、恩は決して忘れない。
今度は豆吉が助けなくてはいけないのだ。
そうでなくて、なぜ沖法師のそばにいられる?
豆吉は己を奮い立たせ、炭となった枝を手に取った。
枝はまだ暖かい。
誰かがここで焚き火をしていたのだ。
もう少し早く到着していたら鉢合わせになっていたかもしれない…。
恐ろしい想像にぶるりと全身が震え上がる。
豆吉は頭を振ってそれらの悪い想像を振り払い、次は香の匂いの元を辿る。
それはすぐ頭上にあった。
木の枝に藤色の布切れが引っかかっている。
着物の袂だろうか、引き裂かれたその布からは、焚きしめられた甘い香の匂いがする。
鮮やかに残る香りから、最近のものだと分かった。
結界が張られてから、鬼は悪さをしていないと聞いていたが、どういう事だ?
どこかで娘が襲われた?
裏がありそうだと思った豆吉は、沖法師に伝えるために布へと手を伸ばした。
その時、ガシャリという音と共に、上から蔦で作られた籠が落ちてきた。
「ぎゃぁぁぁっ」
籠の中に閉じ込められた豆吉は、驚きのあまりぽんっと尻尾を出してしまう。
無我夢中で籠を持ち上げようとするが、蔦で造られているにも関わらず、ぴくりとも動かない。
おそらくなんらかの妖術が施されているのだろう。
パニックになり、狭い籠の中をしっちゃかめっちゃか暴れ回る。
「人の子と思っていたら子だぬきか…」
「だから言ったじゃろ、何やらたぬきくさいと」
「ゆうとらん、獣くさいと言っとったんじゃ」
「同じ事じゃろ」
「静かにせいっ。姫に見つかる」
「うるさいのはお前じゃ」
ぽかっと小気味良い音に目を向けると、ナナフシに似た妖怪たちが言い争っていた。
先ほど叩かれたナナフシが叩き返し、叩かれたナナフシがまた叩き返している。
背丈は豆吉とそう変わらず、妖力の弱い雑魚妖怪だと分かる。
ただの小さな妖たちの悪戯だと分かった豆吉は、縮めていた首をゆっくりと伸ばした。
落ち着いて様子を伺う豆吉に頓着せず、ナナフシたちは言い争いを続け、幼稚な暴力の応酬をやめようとしない。
「おいっ、おらをここから出せ!」
いつまでも続く諍いに痺れを切らした豆吉が、声を荒げる。
すると、すんっとナナフシたちは無言になり、豆吉を見つける。
豆吉は自分の凄みに、ナナフシたちは恐れをなしたのだと思い胸を張ったが、次の瞬間、一斉に木の実や枯葉が投げつけられて来た。
「いてっ、やめんかっ!」
「ヒヒヒヒヒ」
この手の雑魚妖怪はタチが悪い。
危険からは一目散に逃げるが、自分より弱いと判断した相手は面白がり、あの手この手で嫌がることを仕掛けてくる。
ナナフシたちの猛攻撃に成す術なく、豆吉は頭を抱え丸くなっているしかなかった。
何か策はないかと痛みに耐えていた豆吉の頭上に、甘い香りが漂ってきた。
藤色の布に焚き染められていた香の匂いだ。
「何をしている?」
透き通った声が耳に届く。
すると、ナナフシたちの攻撃がぴたりと止んだ。
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