清らかな睡り

10/16
前へ
/16ページ
次へ
異形の子供が助けを求めてきた。 今まで奇怪な妖たちを数多く目にしてきた尊治法師だったが、この子供の姿には度肝を抜かれた。 本当に人の子かと最初は訝しんだが、どうやら本当らしい。 その容姿のせいで散々な目にあってきたのだろうすれた目をした子だが、話を聞いてほしいと小さな体で懸命に頭を下げている。 尊治法師に拒絶されたらと考えると怖かったに違いない。 それでも勇気を振り絞って、こうして助けを求めにきてくれた。 幼い子供が涙をこぼす様は胸が痛くなる。 尊治法師は事情を詳しく聞く前に、協力を約束した。 そして垢まみれの小さな頭を優しく撫でる。 するとそれを皮切りに子供がわんわん泣いた。 尊治法師は驚いたが、そのまま頭を撫で続けた。 安心して欲しかったのだ。 自分は味方なのだと伝えたかった。 尊治法師は子供が泣き止み事情を話せるようになるのを急かさずゆっくり待つ事にした。 未だ胸は痛むが、この子が目の前にいてくれて尊治法師はほっとしていた。 手の届かない場所で泣かれては尊治法師は何もしてやれない。 だがすぐ側にいてくれるのなら力になることができる。 子供が落ち着いてくるに従って、尊治法師の胸の痛みも次第に治まっていく。 異形の子供は弥助と名乗った。 弥助の話を聞き終えると、尊治法師は数刻前に目撃した悲しい妖を思い浮かべた。 弥助の求める助けは、あの妖の事なのだと確信したのだ。 *** ーーその妖は息も止まるほどの美しい姿をしていた。 睡蓮が咲いている。 まるで血を吸ったように艶やかな紅色、先端に行くにつれて薄く、桃色へと変わっていく。 華の美しさに尊治法師は足を止め、見入っていた。 この戦乱の世において命の重さはあまりに軽い。命を奪うことが目的であれ、それに付随するものが目的であれ、己を満たすためだけの殺しはあまりに虚しい。 国同士が争い合うこの乱世では、美しいものは特別な価値を持つ。 悲惨な現実を束の間忘れさせてくれるのだ。 そうは言っても、この地に漂う凶悪な妖気の中では相当の集中力がいるのだが。 これほどまでに満ち満ちていては元にいる妖を探し出すのも一苦労だろう。 尊治法師は美しい花に目を向けたままため息をつく。 時に美しさが災いの種になることも少なくないのだ。 尊治法師は男ばかりが喰われるという噂を聞きつけ、この国へとやって来た。 ここは数年前まで鬼祓師の一族が治めていたと聞いている。 しかし一族が滅んだ今、妖たちが好き放題しているという。 すでに収拾のつかない状態になっており、この地はもう国として成り立ってはいない、と。 中でも男ばかりを狙う悪鬼の犠牲者は数知れず、尊治法師が訪れる以前にも、高尚な僧侶や腕の立つ浪人が鬼退治に向かったらしいが、一人として戻ってきた者はいないそうだ。 尊治法師は見ず知らずの男たちの死に心を痛めた。 そして、まるでその傷を癒すかのように、水面に咲く華を見つめ続ける。 眩しいほどの鮮やかな紅色が尊治法師を慰め、揺れる。 波紋が次第に大きくなり、水面に揺蕩う花、そしてそれとは異なる朱色がある事に気がついた。 人が怪我をしているのかと思い、尊治法師は急ぎ池の中へ足を踏み入れる。 水深は腰丈ほどだ。 用心すれば溺れることはないだろう。 華をかき分けながら色の元を辿っていく。 するとその先に、ーー妖しい麗人がいた。 そのあまりの美しさに人では無いと瞬時に理解し、睡蓮の精霊かと思いかけた。 しかし、口元から鮮やかな朱色を滴らせ、乱れた衣を纏う艶姿に凍りつく。 どうやら捕食中だったらしい。 尊治法師は警戒を緩めずに白皙の美貌を観察する。 麗人もゆっくりと尊治法師へと体を向ける。 麗人の背後からは赤い色が揺蕩っていた。 背後に視線向けると若い男が浮かんでいるのがわかった。 喉元を噛み切られたのだろう、首を中心に血が広がっている。 目の前の麗人がどうやら件の鬼のようだ。 こんなに早く出くわすとは思っていなかった尊治法師は震える手を動かす。 懐から二枚の札を出し、麗人に投げつけた。 退魔の札だ。 麗人が血に濡れた左腕で札を受け止めると閃光が走る。 尊治法師はまぶしさを堪えて前方から目を離さずいた。 すると札が火を吹いて燃え始め、閃光も薙ぎ払われるように消えてしまった。 残る麗人は傷ひとつ負っていない。 どうやらこの地の凶悪な妖力の主は、目の前の麗人であるらしい。 さて前準備なしに太刀打ちできるかと身構える尊治法師を前に、麗人はついと顔を逸らし池の奥へと歩いていく。 まるで興醒めしたように去っていく麗人を警戒し続けたが、本当に引いて行ったのだと確認すると尊治法師は膝から崩れ落ちた。 「深追いは得策ではない」と呟いたが、追おうにも膝が震えて立ち上がれないのだ。 そんな自分に苦笑する。 水面にかろうじて首を出し、しばらくじっとしていた尊治法師は震えが収まるのを確認すると、男の亡骸に近づいた。 体に手を回し、ゆっくりと陸へと引き上げる。 抱えた両腕からは人の重さと、微かに残る温もりが感じられた。 そっと地面に横たえ耳を口唇に近付けて呼吸を確認する。 すでに息はない。 尊治法師は手を合わせ、そして立ち上がる。 この付近に身内がいるかもしれないが、穴を掘りこの場に埋葬することを決めた。 妖の中には逃した獲物に執着するものや、呪詛を込めるものがいる。 先程の麗人はそういった類の妖ではないと思うが、尊治法師は念のため札とともに遺体を弔う事にしたのだ。 それに、血の匂いを嗅ぎつけて他の妖がやってくる危険もある。 生きている人間に何かあってからでは遅いのだ。 *** 弥助は何があったかはわからないと言う。 何があったのかはわからない。 けれど自分のしたことに傷つき途方に暮れているのだとしたら、尊治法師と共に手を差し伸べたい、と。 尊治法師は約束をした。 弥助の事はもちろん、あの姫のことも助けたいと、心から思ったのだ。 きっと長丁場になるだろう。 けれどたとえ何十年かかろうと、約束は果たそうと弥助に誓う。 尊治法師の目から見た姫は悪人には見えなかった。 強い怒りは深い悲しみへと変化しているように見えた。 姫はすでに男と体を重ねる事にも、命を奪う事にも、嫌気がさしているのではないだろうか。 けれど自分では憎しみを止めることはできず、誰かが止めてくれるのを待っているのではないか。 姫の悲しい瞳は「誰か止めてくれ」と訴えているように尊治法師には見えたのだ。 そう弥助に伝えると深い頷きが帰ってきた。 表情もすっきりしているように思える。 きっと弥助も思い悩んでいたのだろう。 弥助と姫にどんな関わりがあるのかは分からない。 けれど弥助にとって姫はかけがえのない存在なのだろう。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加