清らかな睡り

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母はとても美しい人だった。 父はひとめ見たその美貌を忘れられず、周囲の反対を押し切り、奪うようにして自分のものにしたという。 母も美男子だった父の虜になり、二人で幸せになれることを疑いもしなかったという。 しかし嫁いだ先で自分に用意されていたのは第一側室という立場だった。 その美貌と貴族出身という事を考慮した上での立場だったが、母には納得できなかった。 そのうえ正室が自分より身分の低い神職の家の出と聞いてはらわたが煮え繰り返ったという。 破天荒な父は最初こそ機嫌の悪い母を面白がりひっきりなしに顔を出していたが、気位が高くきっぱりとした物言いに嫌気がさしてきたのだろう、次第に足が遠のくようになった。 勘解由が生まれてからは、男児である勘解由を後継に押してくる事を恐れたのかもしれない。 体の弱い勘解由を静かな場所で育てるためという名目で、母と子に少数の使用人を付け、城の外の屋敷へと移された。 屋敷は城のすぐそばにあったが、父が勘解由に会いに来る事はなかった。 正室はすでに健康な嫡男を産んでいたため、父は勘解由に用がなかったのだ。 そうでなくとも父には勘解由以外に幾人もの子がいた。 側室や愛人には事欠かず、時には少年を侍らせる破天荒な人物なのだ。 それでも勘解由は平穏な暮らしができていれば幸せだった。 しかし母はその現状をよしとしなかった。 母は勘解由こそが血筋的に最も当主に相応しいと主張し、勘解由を当主にしようと画策していたのだ。 気が強く厳しい母だったが、その類稀な美貌と聡明さゆえに信奉者も多く、ときおり普段の美しさからは想像もつかない鬼の形相で、信奉者たちと話し込んでいる姿を見かけた。 話の内容は分からない、けれどそんな時の母は、いつもより一層恐ろしく感じられた。 ピリつく屋敷の空気に耐えきれなくなった時、勘解由は屋敷を出、城へと忍び込む。 一度だけ屋敷に遊びに来てくれた兄の紀一が、秘密の抜け道を教えてくれたのだ。 勘解由と母との関係を気づかってくれたのだと思う。 こっそりと話を通してくれたのだろう、勘解由は誰に咎められるでもなく、紀一や正室である紀一の母の元へ遊びに行けた。 気性が激しいところが玉に瑕だが、紀一は当主として申し分のない資質の持ち主だった。 幼い勘解由と本気になって遊んでくれる紀一は、部下からの信頼も厚く、何より母親想いだった。 「勘解由さん、こちらにいらっしゃい。お茶にしましょう」 そう微笑みながら勘解由を呼ぶのは紀一の母だ。 小さな勘解由をまるで我が子のように膝に乗せ、頬を寄せてくれる。 実の母からは受けたことのない温もりが心地よかった。 勘解由も奥方の胸に頭をぐりぐりと寄せ甘えた。 気が荒く筋肉質な紀一と本当に親子かと疑いそうになるほど、奥方はふくよかでおっとりとした優しい人だ。 初対面の時は首を傾げてしまったが、勘解由と母も親子なのに全く性質が違うことを思い出すと、そういうものかと納得した。 奥方は自分を目の敵にしている側室の子である勘解由を、とても可愛がってくれた。 けして美人ではないが、使用人の子らに自ら菓子を配るような親しみやしい人物だ。 破天荒な当主はそういった型破りなところが気に入り、美姫揃いの側室たちではなく、このふくよかな女性を正室としたのだろう。 共に藤代家を支えていく人物に相応しいとして。 勘解由もその親しみやすさを好ましく思う一人だ。 しかし、陰では正室に相応しくないと眉を顰められている事も知っていた。 その派閥の筆頭が勘解由の母であることが悲しかった。 *** 奥方の元へ遊びに行くようになり十年近く経ち、勘解由は十二になっていた。 本来はもうすぐ子供とはいえなくなる勘解由が正室の元へ足繁く通うなどあってはならないのだが、奥方も紀一も暖かく迎えてくれるため、勘解由はいまだに甘えてしまっている。 その日もいつものように城へと忍び込み、顔見知りになった見回りの兵たちと挨拶を交わしながら、勘解由は正室の暮らす一角へと駆け出した。 侍女に案内された部屋の中で待つ。 すると、どたどたと大きな足音と「お取り継ぎいたしますので、どうかお待ちを」という侍女の焦り声が聞こえてきた。 足音からして大人の男だ。 ここを訪れる男は紀一と勘解由以外いないはずだが…と首を傾げるが、そこでもうひとり正室の元を自由に行き来できる男を思い出した。 「その必要はない」 男の声が聞こえた紀一とは異なる、渋みのある低い声だ。 足音はすぐそこまで近づいている、焦った勘解由は立ち上がろうと腰を上げるが、遅かった。 「…お前は誰だ?」 驚きにうわずった声がかけられる。 勘解由は中腰のおかしな体制のまま、声の主を見た。 部屋に踏み込んできた男は、苦味ばしった顔の美丈夫だった。 目を見開き驚きの表情を向けてくる、それでも満ち溢れる威厳は畏怖を感じるほどだ。 対する勘解由は口をあんぐり開けた間抜けな顔をしていたことだろう。 これが父と子の初対面だった。 勘解由が答えられずにいると廊下からぱたぱたと歩幅の狭い足音が聞こえてきた。 奥方だ。 「…お館様。いかがされました?」 奥方の声には答えず、当主はゆっくりと勘解由に近付き、そっと手を伸ばしてきた。 奥方は何かをさとり、すっと当主と勘解由の間に割って入った。 おそらく穏やかな奥方が当主にたてつくのはこれが初めてなのだろう。 些か驚いている様子の当主に、奥方はきっぱりと言い放った。 「この子はわたくしの大切な子です。おやめください」 「なに?」と当主は眉を顰める。 とんでもない勘違いをされていると思った勘解由は慌てて名乗った。 「わたくしの名は勘解由です。第一側室の子、勘解由でございます、父上」 勘解由は奥方を庇うように当主に頭を下げた。 頭上からは「…勘解由」と呟く小さな掠れ声が聞こえてきた。 *** あの日、母は迷う事なく当主に勘解由を差し出した。 普段は勘解由に苛ついてばかりの母だったが、勘解由が父の寵愛を受けるようになってからは、穏やかに接してくれている。 そんな母が再び不機嫌になる事など出来るはずもなく、勘解由は黙って父と母の思い通りになるしかなかった。 あの日いらい奥方の元へは訪れていない。 あの優しい方のことだ、さぞお心を痛めていることだろう。 そう思うと勘解由の心もじくじく痛んだ。 いっぽう真実を知らない紀一は、勘解由が父に気に入られた事を純粋に喜んでくれた。 紀一は不安を感じたないのだろうか、と不思議に思う。 しかし、そもそも紀一の次期当主の座は揺るぎなく、弟たちは脅威になり得ないのだ。 けれども念のため勘解由は、母の思惑を現実にしないために役立たずに徹することにした。 心優しい奥方と、勘解由を可愛がってくれる紀一、大好きな二人を守るために。 もともと当主の器ではない。 女々しい勘解由を当主にする気など、父にはさらさら無いだろう。 ただ父は母親譲りの勘解由の美貌を愛でるだけだ。 勘解由は逆らうこともできず、傷つきながら、ただただじっと耐えていた。
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