清らかな睡り

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昨夜この国は大嵐に見舞われた。 激しい雨風にさらされ、川は氾濫し、木々は薙ぎ倒され、田畑や家々は荒れ果てた。 城にまで水が押し寄せ、城内も大混乱だった。 紀一は地下牢に閉じ込めた弟の様子が気がかりで様子を見に行こうとしたが、部下たちに止められた。 地下牢へ行くなら自分たちを殺してからにしてくれとまで言われては、踏みとどまるしかなかった。 妖どもに恐れられる鬼祓師とはいえ、神の領域である天災には手も足も出ない。 一睡もできぬまま嵐がおさまるのを待ち、紀一は夜明け前に暗い夜道を進んだ。 向かう先は城のはずれにある座敷牢だ。 途中で仕事の早い部下から被害報告を受ける。 死人が出ていると聞き、紀一はさらに足を早めた。 領民たちのことを心配したのではない。 一刻も早く弟の安全を確認しなければ、不安でたまらなかった。 到着すると、巨大な流木が地下牢の入り口に突き刺さっているのが見え、さあっと血の気が引いていった。 「お待ち下さいっ」 流木に塞がれた入り口の微かな隙間から中に入ろうとする紀一を部下たちが止める。 いま紀一が死ねば藤代家が滅ぶことを危惧しているのだろう。 けれど紀一はそんなことどうでもよかった。 「黙れ!」 部下たちを殴り飛ばし、地下牢へと入っていく。 真っ暗で何も見えない。 それでも進んでいくと、すぐに膝まで水に浸かった。 紀一は自分の顔が真っ青になっているのがわかった。 後ろから羽交い締めにして止めようとする部下をなぎ倒す。 「…っ松明!」 後ろに控えている部下を怒鳴りつけた。 声が震えてしまったが、紀一の怒気は伝わったらしい、渋々といった様子で松明が渡された。 奪うように受け取り、その火をかざす。 ……地下牢は底が見えないほど暗い水に満たされていた。 土臭い悪臭が漂っている。 水没してしまっているそこを見て、紀一は膝から崩れ落ちた。 紀一はショックのあまり立ち上がることもままならず、松明が消え再び暗闇に包まれたその場所を、腰まで浸かった泥水をかき分けるように前に進んだ。 すると黙って見ていた部下たちが慌てて紀一を止めにはいった。 ここから先に進めば命はない。 その時、部下たちを振り解き前へ進もうとするとする紀一の顔面に衝撃が走った。 *** 激しい雨音が聞こえてきた。 ただでさえ寒い座敷牢だが、外の雨のせいでさらに気温が下がる。 月明かりの差さない暗闇の中で、体を抱え込むようにして両腕をさする。 今夜は一段と寒さが身に沁みた。 外は嵐なのだろう、ゴォォォォオと大きな音がここまで響いている。 勘解由は鉄の格子に指をかけ揺すってみたが、びくともしない。 次第に鉄の冷たさが手のひらへ伝わり、感覚がなくなってしまった。 手を離し、再び腕をさする。 なぜだか嫌な予感がした。 寒さのせいだけではない、底知れぬ恐怖を感じ、身を震わせた。 おかしなものだ、この十九年、地獄のような恐ろしさなど幾度も体験してきたというのに……。 けれど恐怖とは慣れられるものではないのだろう。 度重なる嗜虐で疲れ果てているところにあの子供の言葉だ……。 誰でもいいから心を通わせたかった勘解由だったが、うまくはいかず更なる傷を負ってしまった。 勘解由は「失敗してしまったな…」と苦笑を漏らす。 傷を負いすぎた勘解由は、どうやら弱気になっているらしい。 ーーそのとき。 ゴボォッッッ‼︎ 一際大きな音がしたと思うと、壁に開いていた穴がバキッと広がった。 穴は勘解由の閉じ込められている座敷より高い位置にある。 一瞬のうちに水が流れ入んで来た。 水のあまりの勢いに、艶蕗は体を大きくぶつける。 全身に激痛が走る。 泥臭い水の中で血の匂いが広がった。 口や鼻に強制的に入ってくる泥水を拒むことができず、勘解由は顔を歪める。 空気を求めてもがくが、肺に残る空気を吐き出すだけだった。 苦しい。 頭がズキズキと痛む。 胸も頭も破裂しそうだ。 すでに水で溢れかえっている地下牢に、次から次へと泥水が流れ込んでくる。 勘解由の体は土の壁や鉄の格子に何度も何度も激しくぶつかる。 痛い。 寒い。 苦しい。 ーーー死んでしまう。 どうしてこんな事になる? 私が何をした? ーーーそうか、私は何もしなかった。 勘解由の中で暗く重たいものが膨れ上がっていく。 初めての感覚だ。 いや、違う、今まで目を逸らし続けてきた感覚だ。 許せない、と思った。 こんな仕打ちは許せない。 勘解由を弄び蔑んだ男たちを……誰…ひとり。 今度こそ…今度こそ………この憎しみを…。 なす術もなく顔面から格子にぶつかり、ぐしゃりという音が響く。 現実に鳴った音なのか、それとも頭の中だけの音なのかは分からない。 勘解由は意識を手放した。
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