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攻撃がぴたりと止んだため、恐る恐る顔を上げてみると、ナナフシたちの姿は消えていた。
「奴らはもう行ってしまったよ。怪我を見せてごらん」
誰かが豆吉の囚われていた蔦の籠をそっと上げてくれる。
透き通った声に目を向けると、そこには目にも美しい人がいた。
年の頃は沖法師の少し上だろうか、二十歳前後と思われるその人は、豆吉と目線を合わせるようにしゃがみ込み、そっと手を取ってくれた。
その手は藤色の着物へと続いており、袖の袂部分は引き裂かれていた。
「ああ、これか。奴らのちょっとした悪戯だ、気にしなくていい。それにしても、お前はたぬき…なのか…?」
美しい人は豆吉のしっぽを不思議そうに見つめてくる。
怪しまれてはまずいと思った豆吉は、慌ててぽんっとしっぽを仕舞った。
そして「豆吉だ」と言う。
「……勘解由だ」
なぜか残念そうに豆吉の尻を見つめながら、勘解由も答えた。
表情が乏しい。
顔立ちが整っている分、能面のように動きのない表情に恐い印象を受けてしまう。
しかし豆吉は勘解由を悪い人ではないと判断した。
まだ幼い豆吉だが、今まで嫌というほど人間を見て来たのだ。
心の貧しい人間からは、捻くれた負の念を感じる。
しかし勘解由からは、正しく心豊かであろうとする、自分を律する人間の温もりが伝わって来た。
それは沖法師から感じるものによく似ていた。
「あんたがあのナナフシどもの言っていた"姫"か?」
「……そう呼ぶものも多いな」
豆吉の着物についた汚れをぽんぽんと払ってくれながら、勘解由はそう答えた。
豆吉は首を傾げる。
何かがおかしい。
確かに見た目は美しい姫のようだ。
しかし先ほどから漂ってくる香りの中に、女人の香りは混じっていない。
それどころか……人の香りがしなかった。
勘解由は豆吉の袖をめくり上げ、擦り傷だらけの腕や顔にテキパキと、無言で薬を塗ってくれる。
大きな葉に包まれたその薬からは、嗅ぎ慣れた薬草の香りがした。
惜しみなく薬を使うその指先からは、優しさが伝わってくる。
この人は何者なのだろう?
「あとはどこだ?」と聞かれ、されるがままだった豆吉は下を向いたまま「……あとはない」と答えた。
勘解由に服の下を見せるのが、なんだか恥ずかしかくなってしまったのだ。
本当は背中と尻も痛かったのだが…豆吉は黙っておく。
「そうか?」と首を傾げた勘解由は薬をしまい、立ち上がる。
照れ臭くなった豆吉は勘解由に話しかけた。
「勘解由はどうしてここにいるんだ?麓の人里まで、おらが送ってってやるぞ!」
助けられてしまったが、本来なら豆吉が勘解由を助けなければいけないのだ。
なぜここにいるのかは分からない。
けれど、このまま鬼の棲む山にいるのは危険すぎる。
早く麓まで下りて、沖法師の元へ連れて行かなければ。
既に自分が道に迷っている事にも気づかず、豆吉は勘解由の手を取った。
歩き慣れない土地、しかも山の中では方角もあやふやになってしまうのだ。
自信満々にあらぬ方向へと歩き出そうとする豆吉、勘解由はその手を引いて歩き出した。
山の麓まで案内してくれるらしい。
勘解由はこの山に詳しいのだろうか?
危険を感じなかった豆吉は、大人しくついて行く事にした。
しばらく勘解由に連れられると、里の姿が見えて来た。
その頃には豆吉も鬼のことなどすっかり忘れており、勘解由に心から懐いていた。
ちょこまかと纏わり付いてくるのを好きにさせていた勘解由が足を止める。
続いて豆吉も足を止めると、前方が開け、人里まですぐの場所に出ていた。
あっという間に麓まで辿り着いたようだ。
「ここから先、私は行けない。お前一人でおゆき」
つれないことを言う勘解由の手をひしと掴み、豆吉は表情の希薄な美貌を見上げた。
山を下る少しの間を共にしただけだが、その瞳から向けられる慈愛の念を豆吉は感じていた。
今は亡き両親が向けてくれた、あの懐かしい温もりによく似ている。
勘解由を一人残して行きたくはない。
豆吉は強くそう思った。
「なんでそんなことを言うんだ?」
涙まじりの問いに答えることなく、勘解由は豆吉の懐から真っ赤な木の実を、そっと取り出した。
沖法師への土産として、豆吉が道中集めていたものだ。
「この山のものを口にしてはいけない。ここに閉じ込められてしまうからね」
「………勘解由は…ここから出られんのか?」
「……不自由はしていない。もうおゆき」
しゃがみ込んだ勘解由にしりをぽんっと押され、数歩前へと進む。
しかしすぐに歩みを止めた。
このままでいいとは絶対に思えない。
「……この山には鬼がある。……く…われてしまうかもしれん。…どうやったら勘解由も山から出られる?」
「ここの鬼は私を喰ったりしないよ。今まで一度も危害を加えられた事は無い。そんなに心配せずとも、私はちっとも辛い思いなんかしていない。……ここは平和なんだ…」
勘解由の言葉が嘘か真か、豆吉には判断できなかった。
瞳を覗き込んでもそこは澄んでいて……けれどほんり悲しんでいるようにも見えた。
勘解由はなぜここに閉じ込められている?
山のものを口にしてしまったのだろうか?
鬼との関係は?
この領域内では小者妖怪どもの悪戯がまかり通っている。ここに棲む鬼は大人しいたちなのだろうか?
けれどあいつらは勘解由にも悪戯をしている。
鬼は勘解由の安否に頓着しないのだろうか?
それともあの妖怪どもは鬼の手下で、勘解由は虐げられている?
勘解由を見つめながら悩みに悩んでいると、そっと頭を撫でられた。
沖法師がするような、大きな手で包みこむ力強い撫で方とは異なる、繊細で優しい撫で方。
黙り込む豆吉を勘解由は撫でながら、続ける。
「……お前は優しいな。だが、里にはお前を心配する者がいるだろう?早く帰ってやらねばいけない。……この匂い…里では食事の準備をしているらしい。もうおゆ…」
「持ってきてやるよ!」
「!……いや…」
豆吉は名案を思いついたとばかりに、顔を輝かせる。
思い立ったが即行動の豆吉は、額を押さええる勘解由をよそに、結界の外へと駆け出した。
後ろから「待てっ」と声がするが、豆吉は気にしない。
山のものを口にすると閉じ込められてしまうなら、勘解由が外のものを口にすれ、ば山から出られるのではないか?
先代や沖法師とともに妖の起こす問題を解決し続けてきた豆吉は、ここ数年で培った勘でそう導き出した。
しかし結界の外へとあと一歩というその時、がさりと背後に何かが落ちてきた。
驚き身を翻す豆吉の前に現れたのは、棒切れのような手足に札の貼られた頭を持つ異形のもの。
ひらりとなびいた頭の札の下からは、この世のものとは思えぬ、醜く恐ろしい顔が垣間見えた。
ーー鬼だ。
「ゥ”ォ”ア”ア”ア”ア”!」
「ぎぃゃぁぁぁあ!」
異形の鬼の姿と嗄れた声に驚いた豆吉は、ぽんっとしっぽを出したまま里へと逃げ出しした。
背中に鬼の咆哮を聞きながら、豆吉は助けを求めるため沖法師の元へと急いだ。
この後すぐに勘解由を置いてきてしまったことを後悔するのだったが、恐ろしい鬼の姿を目にしてしまった豆吉には沖法師に助けを求める以外の手立ては思い浮かばなかった。
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