清らかな睡り

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沖法師は里長から借りた山の縮図を手に、里に面する麓部分をぐるりと回っていた。 巨大な山を丸々と包み込む結界は力強く、先先代がどれほど高尚な僧侶だったのかが見てとれる。 しかしそこから溢れ出る強大な妖気は、昨日里の手前で感じた比ではなく、肌をピリピリと刺激してくる。 これからはこの結界と里の平安を自分が守って行くのだと思うと、沖法師の胃はキリキリ痛んだ。 目の付く範囲に綻びを見つける事のなかった沖法師は、里長の屋敷へと戻るため道を引き返す。 鬼の伝承について詳しく聞きくために、この里最年長の老婆の家へと昼餉に招かれているのだ。 悪鬼が封印されてから長い時が経っているとはいえ、すぐ近くには禍々しい妖気を放つ山があるというのに…。 あくまで歓迎する姿勢を崩さない里の人々に、沖法師は複雑な気持ちだった。 頼りにされているということは十分伝わってきたが、けれどあまりに危機感がなさすぎなのだ。 いくら僧侶とはいえ万能ではないし、ましてや沖法師はまだ経験も力も足りない若造だ。 後ろめたい気持ちを抱えたまま屋敷へと戻った沖法師は、子供たちの楽しげな声の響く中庭へと向かった。 走り回る子供たちはいかにも楽しそうだったが、そこに豆吉の姿はなかった。 沖法師が下準備をしている間、里の子供たちと遊んでいると言っていたはずなのだが……。 「君たち、豆吉を知りませんか?」 「豆吉でしたら、法師様のすぐ後を追って出て行きましたよ」 ……子供の答えを聞き、全身の血の気が引いてゆくのがわかった。 沖法師が屋敷を出たのは朝餉のすぐ後、すでに豆吉は半日近く帰って来ていない事になる。 沖法師の真っ青になった顔から察したのだろう、子供たちが心配そうに見つめてくる。 沖法師は手短に礼を言い、戸口へと急いだ。 初めての大仕事だからといって、大切な相棒を疎かにしてしまっていた。 いつもの沖法師なら、こんな危険な場所で豆吉から目を離しはしない。 悪戯好きで考えなしの豆吉の事だ、山へと向かったに違いない。 どんな凶悪な妖と対する時よりも、豆吉の浅慮な行動の方がよほど恐ろしい。 豆吉にもしもの事が起こったら、きっと沖法師は自分を責めるだろう。 青ざめた顔のまま屋敷の門を出ようとすると、前方から小さな影が近づいてくるのが見えた。 しっぽ丸出しの豆吉が泣きながら駆けてくる。 その姿を見て、沖法師は安堵のあまり座り込んでしまった。 「……ひっく…ひっ!……お”き”ほう”じぃぃ!」 沖法師の姿に気がついた豆吉が駆け寄ってくる。 よほど恐ろしい目にあったのだろう、沖法師は怯えて震える小さな体を精一杯抱きしめた。 * 豆吉は森での出来事を泣きながら法師に伝えてきた。 鬼と共に姫と呼ばれる人物も閉じ込められていることーー。 その姫は豆吉に優しくしてくれ麓まで案内してくれたことーー。 しかし姫からは娘の匂いはおろか、人の匂いすらしなかったことーー。 山のものを口にしてはいけないのなら、里のものを口にすれば姫は出てこられると豆吉は考えたことーー。 もしその姫と呼ばれる人物が本当に閉じ込められているのだとしたら、事態は想定していたよりもずっと深刻だ。 鬼を山へと封印する際に、姫は生贄にされたのではないかと沖法師は推測する。 もしそうだとするなら姫は既にこの世の者でなくなっている可能性が高く、人の匂いがしなかった事とも辻褄があう。 しかし沖法師の記憶にある先先代はそんな人物ではなかった。 それに数十年前は沖法師と同じ年頃で既に、山一つを結界で覆えるほどの力を持っていた先先代だ。 それでもなお姫を犠牲にするしかなかったのだとするなら、それ程までに鬼が凶悪だったということになる。 沖法師はぶるりと震えた。 先先代が自責の念に駆られていたとすれば、十年に一度という頻繁すぎる訪問も理解できる。 沖法師もこの仕事を続け、後世へと引き継がなければならないのだ。 ーー犠牲になった姫のためにも……。 どっぷりと思考の沼に沈んでいた沖法師だったが、横から向けられる豆吉の視線に気がつく。 豆吉にしては珍しく、考え込む沖法師の邪魔をしないよう黙っているようだ。 しかしその目は早く姫を助けに行かないのかと、問いかけていた。 沖法師は豆吉から目を逸らし、やめろと心の底から思った。 優秀だった先代たちに出来なかったことが、凡庸な沖法師に出来るわけがないのだ。 けれど豆吉の視線は沖法師に突き刺さったまま、次第に懇願の色が濃くなってくる。 豆吉にはことの重大さが分かっていないのだ。 下手に鬼を刺激するようなことをすれば、里の人々が危険に晒される。 姫一人の犠牲で済むならば、それで良いではないか……。 そう考えた沖法師は、すぐに自責の念に駆られた。 ……良いはずがないのだ。 善人も悪人も無い、救いを求める者には平等に手を差し伸べなければならないーー幼少の微かな記憶の中で先先代にそう教えられたのを思い出す。 臆病風に吹かれ、大切なものまで見えなくなっている自分が恥ずかしい。 当たり前だがまだまだ修行が足りないようだ。 しかしこの当たり前で、救いの手を振り払うようなことが起こっては駄目なのだ。 たとえ姫を鬼から解き放つことができなかったとしても、せめて心だけは守らなければならない。 姫は"自分は辛い思いなどしていない"と言っていたという。 それはきっと、姫を救うために先先代たちが尽力してきたからだ。 どんな理由で姫が閉じ込められているのかは分からない、けれど沖法師と豆吉は救う努力を怠ってはいけないのだ。 沖法師は懇願の視線を送ってくる豆吉の頭をぽんと撫でてやった。 まずは少しでも多くの情報がいる。 沖法師と豆吉は、里で最高齢の老婆の家へと向かうことにした。
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