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「…姫、こんなところまで下りてきては危険ですっ」
嗄れ声に振り向くと、そこには鬼がいた。
昨日と同じく干からびた枯れ枝のような身体と、頭には札が貼られている。
侵入者を警戒して見回りをしていたのだろう、山に足を踏み入れてすぐに出くわした鬼に、豆吉は悲鳴をあげそうになった。
しかし幸か不幸か、用心して勘解由の姿に化けていた豆吉に鬼は気づいていないようだ。
豆吉は札の下の恐ろしい素顔を思い出してぶるりと震えるが、怪しまれてはいない。
恐怖を気取られぬよう、近づいてくる鬼からゆっくりと距離を保つ。
何かを感じ取ったのだろう、鬼はすぐに足を止めた。
「…昨日の事を怒っているのですか?」
ばれてしまったかとひやりとしたが、鬼は豆吉を本物の勘解由だと信じ切っているようで、ほっと胸を撫で下ろす。
鬼は距離を保ったまま動こうとせず、豆吉の返事を待っているようだ。
まるで勘解由の機嫌を伺うような鬼に、違和感を感じる。
昨日の咆哮からは想像できないほどの、穏やかな口調だったのだ。
それともう一つ、真正面から鬼を見据えて気がついた。
鬼の頭の札には見覚えがある。
豆吉に馴染みのある何かのはずだが、あまりに意外な繋がりなのだろう、その二つが頭の中で結びつかない。
この鬼は何かがおかしい、しかし豆吉にも限界が近づいており、じっくり観察する時間はなさそうだ。
子たぬきの豆吉が大人に化けていられる時間はそう長くは無い。
それに加えて、いつばれるか分からないこの緊張感の中だ、いつにも増して疲れが溜まるのも早かった。
この姿はもういくばくも保てないだろう、それにうまく切り抜けられたとしても勘解由を助けるための体力が残っていなければ意味がない。
先手を打たなければ豆吉の命はなく、勘解由を救い出すこともできないのだ。
しばらく逡巡するも、今やらなければ全てが台無しになってしまうと思った豆吉は意を決した。
ぽんっと変化を解いた豆吉に驚く鬼の隙を突き、その足元を泥へと変化させる。
「ゔぉ"」
大人の膝丈ほどの沼だが、枯れ枝のような足がずぶずぶと沈んでいく。
日頃の悪戯で磨き抜いた術で、鬼の足止めに成功したのだ。
「日々の鍛錬の成果を見たか!おらの方が強いんだ、ざまぁみろ!」
鬼に向かって威張り散らし、長居無用とその場から脱兎の如く走り去る。
懐のまだ暖かい芋を一刻も早く勘解由に届けたい豆吉は、違和感の正体を突き止めようとはしなかった。
完全に鬼の動きを封じた満足感から、もう脅威はないと安心しきっているのだ。
もしこの場に沖法師がいたのなら、現状を強く警戒するだろう。
けれど豆吉の頭の中はやるべき一つの事ーー勘解由に芋を食べさせることでいっぱいだった。
*
微かに漂ってきた甘い香りを追って行くと、川辺に佇む勘解由の姿を見つけた。
豆吉がとことこと駆け寄り、鼻息荒く芋を差し出すと、勘解由は驚いたように目を見張った。
すこしの逡巡のあと、目線を合わせるようにしゃがみ込んでくれ、豆吉の頭をそっと撫でてくれる。
優しい手の心地良さにうっとりしながら、再び芋を差し出す。
しかし何故か受け取ろうとしない勘解由に、次第に困惑してきた。
勘解由は何かを迷っているようだった。
「…食べないのか?」
「…ああ…しかし…」
小首を傾げて問いかけるが、勘解由は口ごもる。
「これを食べて鬼の支配から抜け出せれば、沖法師が助けてくれるぞ!」
「…困ったな、どうしたものか」
芋を受け取ろうとしない勘解由に、豆吉の焦りは募っていく。
勘解由が芋を口にしてくれなければ沖法師の考えた計画が全て水泡に帰してしまうのだ。
沖法師曰く、成功するかどうか分からない一か八かの作戦。
もし勘解由が芋を口にしなかった場合は、すぐにその場から逃げて里へと戻ってこいと言われている。
しかし豆吉はそんなにすぐには諦められない、たとえ最後に決めるのが勘解由本人だったとしてもだ。
沖法師はそうなる事を百も承知で「自分たちは半人前だ」と何度も何度も念を押してきたのだろう。
勘解由を助けたいという望みが閉ざされた時の逃げ道となるように……。
それが沖法師なりの優しさである事も知っている。
元々無茶な計画だったのだ。
それでも勘解由を助けたいという豆吉の想いを汲んで、沖法師は計画を考え実行に移してくれた。
じっと見つめ続けるが、勘解由は一向に芋を受け取ろうとしない。
これはまずい展開だ。
絶対に成功すると信じていただけに、豆吉は諦める踏ん切りがつかない。
そろそろ沼の術も解け、鬼がこちらに向かってくるころだろう。
豆吉の術はそう長く続けられないのだ。
焦った豆吉は勘解由を急かす。
「…早くせんと、鬼が追いつくっ」
すると勘解由は信じられない事を口にした。
「…あやつは鬼ではないよ」
「…えっ?」
勘解由の発言に驚いた豆吉は一瞬、焦りも不安も忘れてしまった。
あの異形の存在が鬼でなくて何だというのだろう。
沖法師の胃が痛くなり、豆吉の全身が縮こまるほどの、この妖力の出どころは鬼以外考えられない。
その時すっと違和感の正体が繋がった。
あの鬼は豆吉の術で足止めできるほどの弱さだった……おそらくナナフシ妖怪たちよりも弱い。
そしてあの札だ。
どこかで見たと思っていたあの札の正体を、豆吉は思い出す。
あれは、沖法師の写経にとてもよく似ているのだ。
あの札に経を記したのはきっと、先代か先先代に違いない。
あの経にどんな力があるのかは分からないが、山を覆う結界と札の効力は別物だと、豆吉は直感的に思う。
鬼に直接札を貼ったにも関わらず今なお強大な力が迸り続けている、あるいはこれほどまで強大な力を放ち続けられるにも関わらず今なお札が貼られている。
これはどちらもおかしい事だ。
ようやくまともな考えに行き着いた豆吉は、訳のわからない不安と恐怖が胸の奥から喉元まで這い上がってくるのを感じた。
……どういう事だ、今はどういう状況なんだ。
縋るように勘解由に目を向けると、憐れみの視線をまっすぐ豆吉へ向けていた。
高まる不安とともに、後ろから荒い息遣いが近づいてくる。
「ぜぇ…ぜぇ…や…めろ…」
「もう鬼がっ…!」
「………あまりあやつをいじめてくれるな…もう歳なんだ」
またしても勘解由の発言にさあっと血の気が引いていく。
「………どういう…」
まだ幼い豆吉には"老いる"という現象がよく理解できない。
しかし息を切らし、よろよろと近づいてくる鬼の動きは……老人そのものだった。
豆吉は訳もわからず動揺する。
どうして勘解由は恐ろしいほど平常なのだろう。
この場で唯一、勘解由だけが落ち着いているのだ。
「…ぜぇ、たのむ…姫を…守ってくれ…」
鬼はよろよろと豆吉へ向けて手を伸ばし近づいてくる。
懇願するようなその動きは、もう、とても鬼のものには見えない。
……自分は誰を攻撃した?
……取り返しのつかない事をしてしまったのではないか?
その場から動けないでいる豆吉の隣で、勘解由がすっと立ち上がり、鬼へと近づいてゆく。
豆吉は「だめだっ」と着物の裾を掴むが、勘解由はするりと行ってしまう。
鬼の目の前で止まった勘解由がそっと手を伸ばすと、はらりと札が剥がれ落ち、塵と化した。
露わになった醜く歪んだ顔は、さらに恐ろしく歪んでおり、涙を流していた。
顔を隠すように鬼は蹲るが、その背に「弥助」と勘解由が呼びかける。
すると鬼の体がびくりと反応する。
鬼の名なのだろうか?
目を見開きながらゆっくりと顔を上げる鬼の目の前で、いつの間に手にしていたのだろう芋を、勘解由は一口齧りとる。
「……っ…だめ…だ…」
鬼は絶望の面持ちで、悲痛に満ちた嗄れ声を出す。
勘解由は「…うっ」呻くと、びくんっと身体を揺らした。
力の抜けた腕がだらんと下がり、頭は天空を見上げる。
ビリリと空気が震え出した。
……そして豆吉は、結界が天頂からゆっくりと破れていくのを、成す術なく見つめた。
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