清らかな睡り

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ーーー数十年前。 異形の姿で生まれた弥助は、親に捨てられた。 泣いてばかりいる両親にはうんざりしていたが、一人きりにされるのは寂しい。 家の外でも醜い弥助を受け入れてくれる人間はおらず、途方に暮れた。 幼子が一人で生きぬくには、この乱世はあまりに厳しい。 本来ならそのまま飢え死ぬはずだったが、弥助はそうはならなかった。 弥助の生への執着は目を見張るほどの強さだったのだ。 しかしその執着はただ弥助が死にたくないからであって、両親を憎んでの事ではない。 幼い弥助にとって、憎しみはまだ理解できなかった。 弥助はただ、腹が減れば食い、凍える夜には衣や毛皮で暖を取り、喉が乾けば川の水を飲んだ。 ただただ本能のまま行動し、生きながらえたのだ。 しかし弥助にも心はある。 いつまでも憎しみと無縁ではいられない。 喰い殺された家畜。 荒らされた田畑。 着物を剥ぎ取られ怪我を負わされた娘。 川へと引き摺り込まれ死んだ幼子ーー。 この国の者たちは皆、弥助を鬼と呼び蔑み憎んだ。 弥助が人里へ降りると、罵倒と共に石礫が飛んできた。 人々から向けられる憎しみの数に比例して、弥助の心にも憎しみが育っていく。 人間は欲深くて臆病だ。 たくさんの蓄えがあるにも関わらず飢えた弥助がたった少し食物を盗っただけで、鍬を振りかざし追いかけてくる。 寒さに凍える弥助が道ゆく娘から衣を一枚盗っただけで、弓を射てくる。 弥助が命がけで仕留めた獣の毛皮に火を付けた子供を川で溺れさて仕返ししただけで、城の城主が兵を率いてやってくる。 弥助は憎んだ。 飢えも乾きも凍えも、それらは全て死に直結する。 自らを殺そうとする人間を殺してなにが悪い、奪ってなにが悪い。 やらなければ弥助は死んでしまうのだ。 弥助は贅沢な暮らしをする人間たちが許せなかった。 何も持っていない弥助から命を奪おうとする人間たちが許せなかった。 *** 斬りつけられた背中が痛みで脈打つ。 血に濡れた衣が肌に張り付き、ひんやりとした。 弥助は城の兵から逃れ、山中へと逃げ込んでいる。 山は弥助の庭も同然だが、夜の山はまた別だ。 血の匂いを嗅ぎつけた獣が、いつやってくるか分からない。 獣と城の兵、双方から逃げ切らなければならないのだ。 幸い今夜は新月。 夜目の効く弥助が、松明片手の間抜けな兵士たちに捕まるわけがない。 さっさと兵たちを撒いて、山を抜け出せばいい。 弥助は振動でじんじんと痛む背中に手を当て、庇いながら歩いた。 傷は浅いが出血が酷かったので、人里の娘から奪った帯で止血してある。 化膿が心配だ。 どこかで薬を調達しなければいけない。 弥助は山中から城の裏へと周り、城へ忍び込もうと画策した。 疑り深い藤代家の当主は、信頼を寄せる少数の人間しか城に置いていない。 弥助を捕まえようと兵を出している今ならば、城の守りは手薄に違いない。 一刻も早く山を抜け出し、夜が明ける前に城へ忍び込もう。 薬を盗って安全な場所で手当てをするのだ。 弥助は音を立てずに草葉をかき分け、周囲を警戒しながら道なき道を進んだ。
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