清らかな睡り

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無事に忍び込み誰に気づかれる事もなく薬を手に入れた弥助は、城壁に開く穴を見つけた。 子供の弥助が見つけた穴は、大人ならばまず気づかずに素通りしてしまうほど小さく低い位置にあった。 この通りは普段から人通りも少ないのであろう、今後も見つかることはなさそうだ。 疲れ果てた弥助は周りの警戒しながら穴を覗き込んだ。 どこでもいい、安全な場所で傷を癒したかったのだ。 穴の下方には、格子で区切られた空間が広がっていた。 どうやら地下に作った座敷牢らしい。 静かなその空間に人の気配はない。 念入りに見回しもしたが、罪人や見張りの兵の姿は無かった。 使われていないのだろうか。 危険はないと判断した弥助は、地下牢に忍び込み一休みする事にした。 城主もまさか弥助が自ら牢へ入っているとは思いもしないだろう。 背中の傷を庇いながら、するりと小さな穴に滑り込む。 穴から地面まで高さがあるが、身軽な弥助はひょいと飛び降りた。 背中に痛みが走ったが、爪先立ちで着地し衝撃を最小限にする。 しばらくじっとしていると、痛みはすぐにおさまった。 牢の中は定期的に掃除がなされているのだろう、埃もなくカビの臭いもしない。 綺麗に磨き上げられた独房が六つ並んでいる。 あまりに清潔で、けれど空気が青く濁っていた。 どうやら使用されていないわけではなかったらしい。 長居は無用と思いながら、地下牢の入り口から死角になる、一番奥の独房へ歩いた。 しかし、無人と思っていたその独房には黒い影があった。 どうやら先客がいたらしい。 足音を忍ばせて近づいてみると、格子の向こう側にぐったりと人間が横たわっていた。 華やかな衣を纏い、こちら側に背を向けている。 襟からは細すぎる首が見え、その上で豊かな黒髪が広がっていた。 裾から見える青白い足はぴくりとも動かない。 死んでいるのか? けれど微かに上下する腹部を見て、かろうじて生きているのがわかった。 格子に触れられるほど近づくと、怖いくらいに整った横顔が見える。 弥助は里の者たちがしていた噂話を思い出した。 ーー藤代家現当主の紀一は亡国の姫を匿っている。 息を呑むほど美しいこの人物がその姫に違いない。 何の根拠もないが、弥助はそう思った。 その美しさに見惚れていると、姫の瞼がぴくりと動く。 まずいと思った弥助は急いで駆け出し、燭台に足をかけて降りてきた穴によじ登ろうとした。 だが慌てていてはうまく登れない。 弥助の異形の姿を見れば姫は悲鳴をあげるだろう。 そして近くの兵たちが駆けつけてくる。 里で散々気味悪がられてきた見た目だ。 そうなる事は分かりきっていた。 なぜだかちくりと胸が痛むのを気付かぬふりをしながら、必死に穴へと手を伸ばす。 「おまえは…だあれ?」 凛と透き通る声に話しかけられる。 その声色に怯えや怒りは含まれていなかった。 きっと姫からは弥助の背中しか見えていないのだろう。 見えるのはベタついて固まった不潔な頭と、血の滲んだ薄汚れた着物。 ただの汚い子供が忍び込んできたのだと思っているのだろうか。 姫は優しい微笑みすら浮かべているのかもしれない。 でも、振り向いたらどうなる? 姫の微笑みは凍りつき、紅い唇からは恐怖が迸る。 再びちくりと胸が痛むが、弥助は大きく息を吸い、穴へと手をかけ地上へ出た。 「怪我をしているのか?」 再び声をかけられる。 その声には弥助が一度も向けられたことのない、温もりが含まれているように感じた。 ーー弥助を心配しているのだろうか? 振り返ることはできず、そのまま駆け出す。 頬が火照っているのは背中の傷のせいだと、自分に言い聞かせながら。
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