清らかな睡り

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弥助は食べ物を探しに山を歩いていた。 山に入れば木の実や果実がたわわに実っている。川のせせらぎへと足を向ければ、つめたい水が飲める。 夜になると獣が動き出し危険だが、昼の山は弥助にたくさんの恵みを与えてくれる。 数日まえ毛皮を燃やされたため、弥助は新たな毛皮を必要としていた。 昼間は暖かいとはいえ、夜は冷えるのだ。 干し肉もそろそろ尽きる。 獣を探さなければならない。 乾燥保存できそうな果実も手に入れようか。 そんな事をぽつりぽつりと思い浮かべる弥助だったが、先程から罠を仕掛ける素振りもなく、果実も素通りしている。 心ここに在らずだ。 国の人間が山に踏み入ってくる前に食べ物を集めなければいけないのだが、弥助の頭の中は別なことに支配されていた。 噂では亡国の姫は藤代家に匿われていると聞いていたが、姫は地下牢に閉じ込められ、具合が悪そうだった。 何があったか知らない。 けれど、ろくでなしの城主によって地下牢へ閉じ込めているのだろうと納得する。 もしそうだとしたら、姫は弥助と同じ虐げられる側の人間という事になる。 弥助は姫の優しい声色を思い出す。 罵倒されることはあっても、あんな優しい声をかけられたのは初めてだった。 姫は見た目の美しさ同様、心も美しい人なのだろうか。 弥助のことも受け入れてくれるだろうか? 生まれてからずっと一人で平気だった弥助だが、仲睦まじい親子や楽しげな兄弟を目にすると、苛々が募ってくる。 のちにその感情を嫉妬だと弥助は知る。 もし自分を大切にしてくれる相手に出会えたら、人間たちみたいに楽しいという感情を体験できるのだろうか。 あの姫に出会ってからずっとそんなことばかり考えている。 もし姫が弥助を大切な人にしてくれるのなら、弥助はあの牢から命をかけて姫を助け出すだろう。 そう思うだけで温かいものに満たされる、けれどそれも長くは続かない。 ぼんやりと歩いて小川に出た弥助は、水面に映る己が顔を見た。 国の誰とも違う、ましてや美しい姫とは全く異なる……醜い顔。 ーーこんな自分が愛されるわけがない。 弥助は一人落胆した。 期待が大きいぶん、繰り返される落胆は弥助を深く傷つける。 *** 受け入れてもらえるかもしれない期待と、拒絶される絶望を繰り返し想像する弥助は、次第に城の中をうろつくようになった。 城内は敵地、誰にも見つからぬよう細心の注意を払う。 もちろん姫にも見つからないように。 ひとけが無いのを確認し、ひっそりと秘密のぬけ穴から地下牢を覗き込む。 ーーいた。 申し訳程度に敷かれている布団の上でじっと丸まっている。 どうやら眠っているようだ。 弥助はゆっくりと穴を通り、地下牢へと降り立つ。 いつものようにそっと足音を忍ばせて近づくと。 薄明かりの中でもはっきりと美貌が見えた。 顔面蒼白で呼吸が浅く、苦しそうだ。 姫はぐったりとしていることが多く、日に日にやつれているように感じる。 しかし、やつれてもその美貌は損なわれず、姫は妖しい色香をはらんでいった。 幼い弥助だったが、姫がやつれている理由には気づいていた。 姫はあまりにも美しすぎるのだ。 表向きは悪鬼から匿っていることになっているが、本当は藤代家当主が姫を独り占めしているに違いない。 弥助は憐れみの目で姫を見つめる。 自分より惨めな人間に会うのは初めてなのだ。 暗くて寒い地下牢に閉じ込められ、毎夜毎夜惨い目に遭わされているに違いない。 具体的に何が行われているのか弥助には想像もできないが、とても酷いことだという事はわかる。 姫の瞼がぴくりと動いた。 目が覚めるのを悟り驚いた弥助は、足を忍ばせることなど忘れて飛び上がる。 すぐに背を向け逃げようとするが、枯れ枝のような腕をぐいっと引かれ、尻餅を突いてしまった。 姫の柔らかくて冷たい手が格子の隙間から伸び、弥助の腕を掴んでいた。 咄嗟に醜い顔を隠そうと掴まれていない方の手を翳すが、それも掴まれてしまう。 美しい姫に醜い自分を見られていることが耐えられず、弥助は手足をばたつかせて暴れた。 するとすんなり両腕が自由になり、すぐさま両手で顔を隠す。 「……驚かせてすまない。お前はよくここを訪れているな?」 優しい声色。 姫に怯えた様子はない。 誰もが気分を害する弥助の顔を目にしてなお、慈愛に満ちた声をかけてくれる。 姫は弥助の容姿を軽蔑することなく、受け入れているのだろうか。 これは何度も想像し期待していたことだったが、今の弥助には姫と言葉を交わす余裕はなかった。 弥助の頭の中を埋め尽くしているのはーー恥だ。 弥助はどうしようもなく恥ずかしかった。 先ほどまであんなに憐れに思った相手なのに、いざ自分を見られると耐えられなかった。 「…ぼうや?…大丈夫か?」 顔を隠したまま蹲る弥助にそっと手を伸ばし、頬に指先を添える。 醜い顔を見たにも関わらず、さらに触れてこようとするのか。 弥助は姫から距離をとり、顔を隠したまま瞳だけを姫へ向け、睨みつける。 「穢らわしい!おれに触るな!」 ちがう。 そんなことを言いたかったわけじゃない。 けれど弥助は暴言を止めることができなかった。 「この淫乱野郎!死んじまえっ!」 そう叫ぶと弥助は穴へとよじ登り、逃げ出した。 後ろを振り向くこともせず、一目散に駆ける。 最期に視界に入った姫は、今にも泣きそうな顔で幸薄そうに微笑みを浮かべていた。 姫の心境は推測することしかできない。 けれど弥助は姫を傷つけてしまった。 弥助は数十年経った今でも、姫の微笑みを忘れられないでいる。
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